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一歩引きながら、それ以上に攻めていく姿勢

「一歩引きながら、それ以上に攻めていく姿勢」を感じた2時間でした。

性の問題、それにかかわる性差の問題、その性差から安易に判断されうる性役割規範の問題がある。

それは例えば、男女格差に繋がり、会社内トラブル(セクハラ)に繋がり、ジェンダー批判に繋がり、LGBT擁護(批判)にも繋がりうる。

性というのが、運命論的な、遺伝的本質だとしたら、隣の同性と全くもって相似的ではない(身体/精神など)ことにどうやって、理由をつければいいのだろうか。

かつ、セクマイ間においても、その問題は顕著に表れてくることに、どうやって折り合いをつければいいのだろうか。

このような、「鬱積したどうしようもない問題」に関して、個々人がどれだけ真剣に、ロジカルに考えることが出来るのであろう。


「二項対立に陥ることの愚かさ」
「性という究極要因で個人を語ることの短絡さ」
「真に抑圧されるのは何か」


簡単な問ではないから、難しいのは当たり前で、それを試行し続けることで独自の性の価値観が見えてくる。

学問の場の大学、インスタントなSNS、二項対立な社会、利害的な国、などによって負のブラッシュアップを受けた概念で、個人を判断しやすい今であるからこそ、ラディカルな学習が必要であるという。


異性愛/同性愛
例えば、まずこのような境界に
揺らぎを与えるような存在であるべき。


それを言い換えれば、「性の可塑性」も本能として認めることである。


人間の欲望は、動物の本能ではなく、自由度が備わっている。食べるものや文化など、多様なものが存在している。
手段の可塑性が十分に高い、ということ。性行動に対してもそう。哺乳類なので雄雌で繁殖するが、哺乳類規定性だけでなく、流動的な性への興味関心による本能行動がとれる。
人間は、外部要因からの刺激によって、行動が規定される。異性愛的規範を規定しないと、倒錯的な性行動をとる可能性もある。
雄と雌で繁殖するということは、本能的に稼働していると同時に、ダブルシステム的に可塑的な可能性もあるのが人間。


存在が思考によって決まるような「構築主義」や、運命論的な「自然主義」の二者のどちらかに偏重するのではなく、その間を動く(動くことが出来る)のが、人間である。

出生主義/反出生主義の二項対立に倒錯してしまうことへの姿勢に対して、そもそも人間のマゾ的側面を見つめなおす必要がある。

生まれることは苦痛、生きることは苦痛、誰かを理解することは苦痛、光を浴びることは苦痛、起きることは苦痛、SMプレイも苦痛。

苦痛自体を、どこかでマゾヒズム的に捉え直し、それを自分という客体が見つめなおし、今をどう制約しながら、枠組みを再構築していくべきか、という姿勢。

それについて知ることの方法としては、当事者も、当事者同士と、またはヘテロに対して、自分の欲望をそのまま表現し、それを一時的でもいいから受け止めてもらう経験が重要、かもしれない。


一歩引きながら
「自分の今の欲望を客観視する」

「数多の否定性を理解(可塑性)し、複数性の中で」
それ以上の歩数で攻めていく。


異性愛規範は変わらない。
雄と雌で繁殖するのだから仕方がない。
セクマイはセクマイ。

思考するための知識と経験は、まだまだ足りていない。と感じた。

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