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経験

Aという経験を始めた2者がいる。Bは数年前から、Cは数十年以上前からだとする。かつ、経験は時の累積だとする。すると、C>Bとなり、つまり経験はCでリッチであることがわかる。時の累積を細分化する。時の流れは平等だ。けれども、時の流れにおける力場は平等ではありえない。常に一定の力場で経験は過ごすことはできない。なので、経験には強弱が存在する。それでは、強弱とは一体なにか。それは相関の力と言える。経験とは純粋経験ではなく相関経験であるからだ。つまり、経験は相関経験として「引き継がれていく」。次に考えなければならないことは、相関先についてだ。その相関が自己からなのか、それとも他者(の経験)からなのか。しかし、これは問題にはならない。経験に関わるのは自己であり、その自己はすでに相関経験を有している。ようするに、純粋経験を追跡することは不可能ということだ。導かれるのは、純粋経験は時の累積に左右されないということ。もう一つ、相関経験は時の累積に左右されるということ。しかしながら、純粋経験は追跡不可能であり、つまりは存在しない。なので、人は相関経験を観察し、それを経験と呼び、その経験を時に流れに委ね、量化し、その豊富さを経験の指針とする。ただその量を、経験の価値とする。相関とは何か、改めて考える。相関経験を認める自己は、相関的理性を有していることになる。経験と経験の化学反応が経験であり、その経験も化学反応の担い手を任される運命にあることを知っている。その感覚を、理性として有している。化学反応、ひいては経験反応は、その経路を一路に特定できない。経験にはラベリングがない。反応に使う経験と経験を「特定のもの」として選び取ることはできない。つまり、生み出される相関経験は「選ぶことができない」。「選ぶことができない」ので、経験は相関的であるといえる。選ぶことができない経験と経験の衝突が無数の相関経験を生み、その相関経験は時の累積でラベリングをはぎ取られ、再び経験反応に使われる…この繰り返しが経験であり、相関経験であり、選択できない経験であり、無数の種類からなる非純粋経験である。ではなぜ、「>」「<」で比較できると思い込んでしまうのだろうか。お互いに因果関係のない2つの経験を、どのようにして不等号で認識できるだろう。

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