見出し画像

馬、その比喩的存在 寺山修司『馬敗れて草原あり』(角川文庫)

 このところ日曜日になると、寺山修司のエッセイ『馬敗れて草原あり』(角川文庫)を読むことが多い。林静一の装画があしらわれた旧版を読んでいる。寺山修司の文庫というと一時期の角川文庫の、林静一の装画という印象がある。

 日曜日に『馬敗れて草原あり』を読むのは、日曜日には競馬があるからだ。もちろん土曜日にも競馬はある。そんなことを言えば、地方競馬は平日にも開催されている。悲しいことに、にわか仕込の競馬愛好者には、日曜日のメインレースに予想を張るだけで精一杯なのだ。夏の中央競馬は札幌・新潟・小倉を中心に開催されるので、あいにく競馬場まで行く機会もない。とりあえず金曜日あたりからどの馬がくるか延々と予想して、当日は場外馬券売場で馬券を買う。レース直前にちかくの中華料理屋にすべりこむと餃子(と、たまにビール)だけ頼んで中継で結果を見守り、高揚を静めるべく書店を冷やかしにいく。そのあと喫茶店で今日のレースのことを思い返しながら、寺山修司の競馬エッセイを読んでいる。勝っても負けても競馬のことを考えるのが楽しい。そういう時期なのだ。
 いかに競馬にまつわるエッセイといえども、寺山修司の文章を立て続けに四、五編も読んでしまうと、著者独特のロマンチシズムが勝ちすぎてくる。競馬エッセイというより寺山修司のエッセイを読んでいる陶酔感に飲み込まれないよう気をつけながら、また来週には鍛え抜かれた馬たちが青くあざやかに整えられた芝を、時に砂上を駆けているのだと思うと、日曜日が待ち遠しくなる。

 一つのレースに八頭のサラブレッドが出走するならば、そこには少なくとも八篇の叙事詩が内包されているはずだが、それぞれの物語は読者の想像力の中で組み立てられるものである
寺山修司「戦いを記述する試み」


『馬敗れて草原あり』カバー折り返しの内容紹介にも前半だけ引かれているが名文である前提のうえで「それぞれの物語は読者の想像力の中で組み立てられる」ところに言い知れぬ魅力を感じる。あらゆる競技に当てはまることではあるものの、競馬はそのドラマが一頭の馬に託されるのだ。それを知ってか知らずか、叙事詩を内包してレースに臨む馬の姿は、本来そなえもつ野性の本能と人間的な駆け引きの間隙を縫うように美しく駆け抜ける。歌人・藤原龍一郎に「純潔の馬なる比喩的存在に金銭などを賭けて笑って」という歌があるが、馬とは物語の、人生の、あるいはもっとさまざまなものを内包したひとつの「比喩的存在」だ。

ヘミングウエイが、マドリッドのカフェでジョージ・プリンプトンに、
 ――君はレースを見に出かけるかい?
 ――ええ、ちょいちょい。
 ――じゃあ、レーシング・フォームを読んだろう。ほんとの小説技術ってのは、あれさ。
 と語ったように、競馬の新聞には馬の歴史が複雑に交錯していて、それが文学(とりわけ散文)の世界のような構造をもっているのである。


 レーシング・フォームは、百年以上の歴史をもつシカゴの競馬新聞だ。この有名なエピソードを、私は『馬敗れて草原あり』で読む前に、高橋源一郎のエッセイで知った。出典は定かではないが、嘘くささも含めていかにも有り得そうな話である。優れた競馬愛好者とは、すなわち優れた読者でもある。遠藤周作、田辺聖子、古井由吉、虫明亜呂無、吉屋信子と列挙するまでもない。彼らは優れた文学者であり、それは優れた読者であることと不可分だ。

 日曜日のメインレースが終わると、テレビの画面には本日最後のレースを前にした馬たちがパドックを歩く姿が映しだされる。メインレースの余熱を残してパドックの映像を眺めていると、寺山修司のことを思い出す。かの詩人は今日のレースを見ていたら、どのようなドラマを夢想しただろうか。愚にもつかない考えが浮かぶ。そして日曜日の競馬愛好者が競馬新聞を熟読するように、私もまた寺山修司のエッセイを読む。走り去る夢想の影だけでもつかもうとして。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?