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一冊の詩集

 書名も著者の名前さえも知らない本を手に取るのは、偶然と必然どちらの賜物だろう。
 かつて、みずからが無邪気さを具えているとは露ほども思いはしなかった程度には無邪気であった少年時代が、私にもある。当時からすれば、何も知らないままに一冊の本を手に取ることはめずらしくはなかった。タイトルが気になったから、装画が目に止まったから、それら事故のようにして出会った本はいくつもある。しかし、生煮えの知識がつきはじめると半可通に陥るのはめずらしいことでもなく、時に知識が贅肉のように纏わりついて食指さえ動かすのを億劫にさせてしまう。いまや私にとって、そういうかたちでの本との出会いは、すっかり特別なことになってしまった。それが詩集ともあれば、より得がたく感じる。

          *

 七月堂という詩の出版社がある。文字によって組成されたカメラ・オブスクラであり、それそのものが文字通りひとつの密室たりえる堅牢な論理を有した朝吹亮二の詩集『密室論』を刊行した版元として、はじめて私は知ることとなる。昭和四十八年に印刷所として創業ののち世田谷区の梅丘から明大前に移転した七月堂が、今年さらに豪徳寺へ移転した。二度の移転が、それぞれ私鉄の高架工事が遠因となっているのは奇妙な縁を感じる。
 七月堂には古書部とよばれるものがあり、会社に併設して、自社の出版物を含む新刊と一緒に古書の売買もしている。明大前にあった頃から何度か訪れていたので、一方的な転居祝いの気持ちで、豪徳寺に移ってからも覗きに行くことだけは決めていた。豪徳寺には玄華堂と靖文堂書店という佳い古書店がふたつもある。新しい古書店が豪徳寺にできたのだと思えば、さらに嬉しくなる。要は単なる買い物である。
 行こう行こうと思いつつ、ぼんやりしていると二月三月と過ぎていった。ようやく訪れたのは四月の頭で、京王電鉄の線路沿いからすこし離れるうちに喧騒から切り離された小部屋然と佇んでいた以前とくらべると、新しい店舗は東急電鉄世田谷線に沿ってしばし歩いたのちさらに住宅街を分け入ったなかに、不思議なほど周囲の家並みと馴染んでいた。

 移転した七月堂古書部は立地の違いだけでなく、明らかに店舗の面積も拡張されていた。ただ以前とかわらず古書の棚と地続きに、いくつかの出版社の詩書が新刊でも購入できるようならんでいる。詩を書く者にとっても、ましてや読む者にとっても新刊か古書かはさして重要ではない。その分け隔てをすることなく、あくまで仲介者として詩を届ける責務に身を置く気高さはいまや貴重なものだ。
 棚をぐるりとすると気にかけていた本もいくつか見つかったので、それだけでも十分だったのだが、せっかくの移転にご祝儀のような余計なおせっかいで、もうすこし見て回ろうという気持ちになった。そこで、一冊の詩集を見つけた。

 和紙のような肌理の粗く厚ぼったい紙は、函装でありながら不思議と柔らかな印象を纏っていた。心地好い手触りを残す函の背には鈍い光沢のあるちいさなシールが貼られていて、棚の前を通りすぎようとした者の眼に微かにかがやいて映る。シールには、假泊港という美しい書名と、著者の名前が印されていた。港の人という、書名と掛け合わせたような版元の名前さえも完璧であった。
 笹原常与という詩人の名前を、私は寡聞にして知らなかった。もちろん詩集そのものも。しかし、背のみからも放たれる清潔な色気に引き寄せられるように、気づけば手に取ってしまった。
 天アンカットで仕上げられたフランス装は、ひとふれで書物のあるべき美しさを解した造本と感じさせる。二色刷の活版印刷からなる本文の組版は、詩のために隅々まで設計されている。北村太郎の詩集から屋号を採る版元だけあって、詩とむきあった時間を思わせる繊細な仕事ぶりが窺えた。
 港の人という出版社といえば、私にとっては堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』や光森裕樹『鈴を産むひばり』といった現代短歌の優れた出版が記憶に新しい。昨年刊行されたマツザワシュンジ『春の花火師』も佳品だった。優れた造本が多い港の人の書籍のなかでも、その詩集はひときわ美しい本だった。
 巻頭に置かれた一編の詩に目を落とした。

   畳まれた海

母親の胸の奥に
畳まれてしまわれている海がある。
――溺死した少年を 今も沈めたまま。

小さく畳まれた海は
時々 潮鳴りを高め
満ちてきては 母親の記憶を濡らす。

夏がめぐってくるごとに 畳まれていた海は
母親の胸の奥に そっとひろげられ
いつしか外の海とひと続きになる。

すると ひろげられた内海にむかって
外の海から
溺死した少年が満ちてくる。

笹原常与『假泊港』


 母親の胸奥に眠る記憶の海と、少年の記憶。しかし、少年は一個の死体と成り果てて、さらに海の底深くに沈められている。
 海と死のイメージにどこか戦争の陰が仄見えるのは、著者が石原吉郎と親交があったことも影響しているだろうか。少年は、ひとりの兵士として海の向こうに旅立った。母国の土をふたたび踏むことなくかの地で死んだかれは、いまも母親の記憶の海のなかでは、幼い少年の姿をしているのかもしれない。しかし、それは生きている姿ではなく、彼女が見たはずもない一個の死体として沈んでいる。記憶には事実を美化する作用がある。かの地で少年はどのようにして最期を迎えたのか。願わくば惨たらしい死ではなく、安らかな溺死を。母親が見ることのできなかった少年の死に顔は、望む望まざるに関わらず彼女の記憶のなかで美しくあり続けているのではないか。
 四季がめぐり、あの夏がまた訪れる度、母親の胸奥にある記憶の海は現実の海と地続きになる。あの夏から幾度かに亘ってかの地からは兵士たちが帰ってきただろう。そこに少年の姿はあったろうか。夥しい少年の死体は、同じく命を散らした少年たちかもしれない。あるいは、かれらが殺めたかの地で暮らす別の少年たちもいるかもしれない。そのなかに母親の探す少年の姿はあるだろうか。
 彫琢された言葉のひとつひとつに、記憶が死を美化していく残酷さが、残された者の虚無がつたわってくるような詩だった。

          *

 笹原常与は、半世紀以上にも亘る詩業のなかで、たった四冊の詩集しか残さなかった。『假泊港』は二冊目の詩集『井戸』から四十年ちかくもの時間を経て、二十一世紀を迎えてから刊行された三冊目の詩集だ。生前刊行された最後の詩集でもある。そう思うと『假泊港』という本の美しさは、ここではないどこかへ出航する朝焼けのなか、陽光をあびて船体がかがやきだすような間際の美しさなのかもしれない。没後には、遺稿詩集として『晩年』が刊行された。『晩年』の版元は奇しくも七月堂である。
 書物の海のなかであえかな光を放っていた一冊の詩集。詩集のなかには、さらにひろく美しく、さみしい海が畳まれてしまわれていた。その詩集は、いま私の書棚に収まっている。

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