雑な言葉遣い

Noteというものを初めて使ってみます。デビュー投稿です。これはTwitterを初めて一年以上が経過し、二つくらいの垢でツイートしていて感じ始めた違和感ゆえです。ツイートは気軽にできてしまうものなので、しばらくするとツイート時の考えから変わってしまうことは初期からずっと違和感として感じていました。しかし何より、自分の考えが未熟なままに固定されてしまうことを、最も違和感、いやTwitterの弊害として感じるようになりました。言語化することで曖昧だったものが脳内で質量をもって定着する。これだけ見ると良いことのように思えますが、それが思考停止を意味しているように思えて仕方がなかったのです。Twitter上でのツイートを辞め、熟して食べごろになってきた考えを言葉にすることによって収穫し自分の血肉にする、それがNoteでできるならNoteを使うことはもしかすると僕にとって素晴らしいことなのではないでしょうか?

さらにどうしたものか、Noteで考えをつらつらと書き記すとなると言葉選びに自然と注意が向くことになります。ツイートでは文体に意識を向けることはあまり無かったですが、言葉選びにこだわることによって僕の文章力が上がれば願ったり叶ったりでは!???という安直な願望でした。

さて、言葉選び、で最近考えるのは雑な言葉遣いの是非についてです。(これはナブナさんも軽く触れていた話でもありますが)エモい、ヤバい、と一言でまとめることが果たしてそこまで批判の対象になるべきなのでしょうか。何か心が動くものがありそれを「エモ」という枠に収める、心象の表現として雑なくくり方であることは言うまでもありませんが、だからと言って日本人の語彙力低下について嘆いたりすることはやはり不毛なことです。言葉は文化的で面白いものではありますが、時代によって移り変わっていくことは必然なのでその移り変わりを嘆いてもしょうがない。言葉は文化的創造物でもありますが、主流の言葉はやはり時代の流れに合わせ便利なように形成されていく物でしょう。かといって、この「エモ」という雑なくくり方を認めてしまっていいでしょうか?僕は個人的には良いんじゃないかと思っています。本人が「エモ」だと感じたならそれは「エモ」なんでしょう。言葉遣いについての理想を取っ払って見てみるとこれは非常に自然な動きではないでしょうか。批判するとこなくない?

僕が書きたいのはエモについてではありません。こんなどっかで聞いたことあるような話はどうでもいい。「教養」という言葉がくくりとして雑過ぎるし一種の固定化された奇妙で醜い価値観を孕んでいて嫌いだということもどうでもいい。ああ、なんだかんだNoteでも雑な言葉遣いしたくて雑な言葉遣いを肯定する論拠をつらつらと書き連ねたくて書き始めたのですがやる気がゼロになりました。書ききることができないなら書かない方がましです。僕の言葉遣いは雑です。湊あくあさんが好きです。星川サラさんが好きです。なんだかんだめんどくさい俺に付き合ってくれる友達が好きです。ヨルシカが好きです。音ゲーが好きです。言葉がこれ以上必要なのでしょうか。もし言葉にしないと取りこぼされてしまう何かがあったとしてそれは悪いことなのでしょうか。それも無常とかいうやつなのではないか。わかりません。もはや眠いだけです。早く終わらせたいです。勝手に寝ます。

Noteは自己表現のつもりです。誰かにとっての配信が僕にとってはNoteなきがしています。最後にこれだけ書きたかった。多分Noteはヨルシカ関連か、こんな感じのどっかからパクってきたような落書きが多いです。著作権などは知りません。そのうち、ヨルシカのアルバムの「盗作」と「幻燈」の感想をつらつら書くやつやります。二つともとても味わい深かった。寝ます。おやすみなさい。


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