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模倣による永劫回帰(日記11/17)

 ヨルシカにはファンクラブ的な役割をしている「後書き」と呼ばれるサイトがある。僕は前からヨルシカの歌がとても好きなのだが、後書きに入る気は全くなかった。むしろヨルシカに関しては純粋に音楽を聴くだけで、曲以外の情報を入れたくないと思っていたのだ。(ほんとに思っていたのか?俺はほんの一時期だが、ナブナさんのラジオを聞いたりもしていた)しかし最近、n-bunaさんの描く音楽の根底にある価値観に染まりゆく自分が行くところまで行ってしまったのか、n-bunaさんのコラム読みたい気持ちが抑えきれなくなってしまい、ついに後書きに入ってしまった。我ながら愚かな話である。(もし読んでくれる心優しい方がいるのなら、長いので途中まで飛ばし飛ばし読んでやってください。)

 もちろん有料コンテンツなので内容についての話はなるべく避けるが、そのコラムの中は普通(?)の1人の人間としてのn-bunaさんがいた。ナブナさんは配信やインタビュー(コラムでも)で常々「作品の背景情報が全く無い状態で聞いて心動かされる作品に最も価値を感じる。僕はできればそういう存在になりたい」といっている。始めの頃は全然この言葉の意味がわからなかったのだが、今になってなんとなく分かるようになってきた。僭越ながら以下では僕の(?)考えについて説明する。

 作品それ自体が純粋に価値を持つかどうかを考える。この時、前情報(作者の身辺情報など)を知った状態で鑑賞する作品に見出す価値というのは、作品自体の価値なのか、それとも当該身辺情報と作品との融合で生まれた価値なのか見分けがつけられない。そう考えると、自分が感じている価値がその身辺情報ではなくその作品自体に由来するものだと確かめる為に必要な条件は、作品についてなにも前情報がない状態で見ること、ということになる。恐らく、創作や作品というものに真剣に向き合ってきたからこそ出る結論なんだろうと思う。今の僕では到底間に合わない(実感の伴わない)結論である。

 今の俺は、クリエイターらの作る作品に真っ向から向き合えていない。だからこそ、背景情報が気になる気持ちが、自分の中での作品それ自体の価値を温存したいと言う気持ちに勝つことができないのだ。さっき書いたような結論に実感が伴わないのだ。

 あぁ、いま書いた話こそ愚かな話だ。俺は気づいている。僕は他人の価値観(n-bunaさんに限らず)ばかりに影響されて、自分でなにも生み出しちゃいないことを心のどこかで自覚してる。「今の俺は、クリエイターらの作る作品に真っ向から向き合えていない。」などとご大層なことを書いたが、こんなこと心の底から思えているわけがないのだ。だって俺には物語が足りていないのだから。俺自身で何かオリジナル性を生み出せる基盤なんてないのだから。勿論、この世界に完全なオリジナルが無いことなんて誰かに言われるまでもなく分かりきっている。でも、自分にとっての完全な本物の救いは、自分で、自分がオリジナルだと思えるもので作り出すしかないと思うのだ。自分にとっての救いだけは、その核心にオリジナルの要素やオリジナルな組み合わせがないと、完全な、本物の救いになってくれない気がするのだ。いやそもそもオリジナルなんてものがあったとして、完全な救いが果たして存在するのか。存在しない気もする。あぁどうして俺は無心論者なんだろう。絶対的な信仰対象があればこんなことを考えずに済むのに。彼らにとっては神こそが救いをもたらす存在だからだ。俺だってこんな出口のない沼に嵌りたくて嵌ってる訳ではない。俺は多分、どれだけ叩いても俺のままだし強いショックを与えたところで何も治らない。俺のままで少しずつ変化しながら時間の海の中を潜り抜けるしかないのだ。今の俺には何を語る資格も無いし、なんならこのノートが1番愚かなのだ。

 最近、ぬゆりさんの曲にどハマりしており、愚かな僕はやはりTwitterで過去ツイートを漁ってしまう。しかし、ぬゆりさんのツイートはとても面白くて、とくに、
×海行きたいね
○汚い海と綺麗な海1箇所ずつ行きたいね
というツイートはとてもお気に入り。いつも怠惰でスケジュールを後回しにしてしまう自分だが、好きな女の子に、汚い海と綺麗な海一つずつ行きたいね、などと言われたらすぐに予定決めできる思う。多分鼻息も少し荒くなる。どうしてこの言葉がそんなに好きなのかは自分でもよく分からない。でも汚い海と綺麗な海は裏返しの関係にあると思うから、やっぱり好きな人とは両方分かち合えると嬉しい、と思う。別に理解されなくても良いんだけれど。

 やっぱり俺は他人の創作物を目の前に、真っ向から向き合うことができず、その人のツイートなんかを見て背景を知りたがってしまう。(これは、ぬゆりさんのツイートが好きだということとはまた別の話である)でも、この事を愚かだとする価値観自体が他人の価値観のレプリカであり、俺自身の意見というより他人の意見の模倣といった方が正しいような気さえしてしまうのだ。別に模倣でも良いだろ、と言われればそれはそうなんだけれど、それだけでは割り切れないものがあるよね、という話をしているのだ。じゃあ例えば、俺の考えや心の全てが他人の思考や感情の歴史の集積の一つの形態に過ぎないとしたら、俺の考えが本物であるとする根拠は何処に見出せるのか?この理論に基づくと、全ての思考や感情がレプリカということになるし、究極の話では本物などどこにも存在しない、ということになる。本物の判断根拠が本物じゃなければ、本物という概念の存在から危ぶまれるのだ。あぁ、またレプリカントみたいな話しちゃってるよ。ヨルシカのレプリカントという曲があるのだが、Apple Musicによると俺は今年この曲を既に90回くらい聞いてるらしい。我ながら軽く異常者だと思う。ぜひ聴いてほしい。

 でも俺は、本物を信仰している。湊あくあちゃんのことが好きな気持ち、星川サラの人間性に一種の憧れを抱いている気持ち、昔好きだった女の子の人間性が未だ好きだという気持ち(恋愛的な感情はもうない。ここは割り切って考えなくてはいけないと思う)、仲の良い友人らへの同情、これらの感情は本物だと信じている。なぜなら、俺は今挙げたものに見出している本質的な"何か"が、失われることのない絶対的なものだとほとんど確信しているからである。これは今述べた「本質的な何か」に対する神格化と言えることだろう。あぁ、また、アンドレジッドのような事を言ってお前は模倣しかできないのかと怒られそうである。地の糧の中の彼は、自然の中に救いを求めた。それは絶対的な何か(つまり本物)を求める中での一つの綺麗な答えだと思う。でもそれを模倣するにしては、俺はバーチャルな世界に入り込みすぎている。バーチャルに新次元を見出しすぎている。2次元と3次元の微妙な融合に取り憑かれる人間が日本にも世界にも沢山いるのだ。すごく面白い話だと思う。だから彼の模倣はできない。それと同様、僕らは完全に誰かの模倣をすることはできない。例えば僕がヨルシカの曲を聴き込み、彼らの真似をしようと全く似た傾向の曲を作ろうと奮闘しても、完全に納得のいくものは出来ないはずである。本物、というのは本来こういう所から見出される類いのものなのかもしれない。どうだろうか。分からない。こうした分からない、の循環から抜け出すには信仰しかありえないのだ。だから僕は、ある種の安定性を手に入れるために、さっき言ったような「信仰」をしている訳である。(勿論ここで言う信仰とは、比喩である。何度でも言うが、無心論者である。神など馬鹿げていると理性は俺に訴えかける。)

 書きたいこと自体は一貫しているのだが文章がとっ散らかってしまったせいで、どう締めれば良いのか分からなくなってきた。自分の苦しみを表現するために敢えてとっ散らかった文章を書いているのだが、側から見るとよく分からない文章になっている気がする。まあ、僕が満足できる文ならそれでいいと思うことにしよう。要はずっと、結論も出そうにない話をしてきたのだ。本物なのか偽物なのか?などというあくまで相対的な概念に絶対性を求める意識自体がすごくナンセンスだと思う人がいるなら、それはすごく尤もな考えであると思う。自信を持って生きてほしい。僕視点でも8割は同意できる。そういう人には、「こういう人もいるんだな」という風に優しく理解してもらえれば幸いである。別に理解されなくてもいい。どちらにせよ結論なんて出ない。やっぱり大学のある日は寝不足がちで、今は空きコマにこんなnoteを書いてるんだけれど、すごく眠い。眠たさから来る罪悪感を打ち消すためにこんな無駄なnoteを書いていたのだ、という気になってきた。我ながら下らない動機だ。次note書く時は、寒いけど雪景色って綺麗だよね、とかみんなが幸せになれるnoteにしたい。フィクションも書いてみたい。さて、こんな下らないnoteはこれで終わりにさせてもらう。でも、下らないとか言いながらなんだかんだお気に入りのノートになってくれた気がする。
以上。


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