サブスクリプション、その違和感の正体

数年前から音楽をサブスクで聞くようになった。CDアルバム1枚買うよりも安価であらゆるジャンルの音楽が聴ける。すごい時代になったものだと興奮したのを覚えている。

しかし、今どうしても私にはしっくりこない感情が湧いてきている。

それは以前よりも音楽が聴けてないのだ。昔のように楽曲に対して、何か強烈な印象が残らないのである。

素人が気づくほどプロの技術が衰えるわけがないのだから、私のほうに原因がありそうだ。

音楽は記憶を呼び起こす。今でもある楽曲を聴くと当時を鮮明に思い出す。

私の場合は、U2のアルバム「All That You Can’t Leave Behind」を聴くたびに、南米への旅行が思い出される。霧の中にそびえるマチュピチュの壮大で美しい情景をみて自分のちっぽけさを痛感した記憶がはっきりと蘇るのである。

気持ちや記憶につながっていくのが、私にとっての音楽の醍醐味なのである。ところが最近そうした深さが味わえないのだ。

なぜか落ち着いて音楽が聴けなくなったこの頃、本書『サブスクリプション』を読んで、この違和感の正体が少しわかったような気がしたので記しておこうと思う。

結論から言うと、深く音楽が聴けなくなったのは、サブスクによって私の音楽に対する姿勢が変わってしまったからなのだ。

著者はサブスクリプションの特徴を「所有から利用へ」と表現する。この言葉に出会えただけで読んだ価値があるというほどに、明快に私の煩悶を取っ払ってくれた。

まずは音楽が所有ではなくなったこと。

サブスクを通して、私たちは音楽を購入して聴くのではなく、あらゆる音楽を聴く権利を得ることになった。いつでもどんな音楽でも聴ける。音楽は自分のものではなく、誰もがアクセスできる権利なのである。

これまでの私は目の前に音楽があったのではなく、それを探し求めていた。

タワーレコードに足を運ぶ。ジャケットに目を引かれることもあれば、ラジオやTVで気になった曲を探すこともある。いくつかを手にとって、ときには視聴する。吟味に吟味を重ね、これだという1枚を買う。

買ったCDは部屋のコンポで歌詞カードを見ながら聞き聴く。繰り返し繰り返し聴く。あるいはCDをPCに焼いてiTuneやipodで聴く。

このプロセスを踏んでいたとき音楽は所有されていたのだ。音楽を手に入れて自分に染み込ませる過程に、私の求めている深さがあったのだと思う。

サブスクになってからは、自由に聴きたい曲にありつける。今日聴いた曲は明日は聴かない。聴けるのに。なぜか。別の曲が待っているからである。自分に染み込む前に浮気をするのだ。

決して自分のものにならず、自らその曲を遠ざけて新しい曲へ移っていく。この移り気な感じが、所有という言葉によって気付かされた。

目の前に並べられた沢山の種類のごちそうがあるのに、一つだけを選んでひたすらそれを食べ続ける阿呆がいるだろうか。

もったいないと思って、あらゆるものを食べ漁るだろう。それゆえに何一つ印象に残る味を覚えていない。そんな状態になってしまったのだ。

次に「利用」という言葉である。

この響きには軽薄さがつきまとう。真剣ではない。利用に変わった背景にはIT技術の進化があった。音楽にも利便性が求められたのである。

「利用」という言葉には、音楽を聴くことが目的ではないと揶揄しているように思える。

すなわち、もはや音楽はスマホで聴くものになった。何かSNSをいじったり、記事を読んだりしながら、聴くことができるのだ。

そういえば私もすでにスマホからしか聴いていない。そして聴きながら無意識にスマホをいじっている。

家のコンポで音楽を聴くことはめっきりなくなった。音楽を聴くためだけに時間をとることは皆無である。もはや音楽はBGMでしか存在しない。

「利用」にはまた使い捨てのニュアンスも含む。

自分のためにならなければ、やめるという選択肢をすぐに取れる。ちょっと聴いただけで趣味に合わないものはスキップしてもよいのである。

昔のように、いちいちプレーヤーからCDを取り出し、丁寧にケースにしまい、別の一枚を探す必要などない。

すでに自分の趣味嗜好にあった曲がプレイリストで取捨選択されている。スキップが多ければ、好みがちがうと選曲を変えてくれる。その結果アルバム全体を聴く習慣は皆無になった。

「あの曲順でしか味わえない高揚感」を私は失ってしまったのである。

そこまで音楽を脇に置かねばならぬほど忙しくなったのは自分のせいだろうか。もしかしたら、テクノロジーの進化によって、やりたいことがいくつもできるようになったからなのか。

「所有から利用へ」の変化は音楽以外にも見られるのだろうか。

今やサブスクリプションとは剃刀の刃から住まいまで、あらゆるものが対象になっている。

昔ながらの電気やガスといった基本料金や新聞、雑誌の定期購読はそのままであるが、「車は所有しなくてよい」「洋服は所有しなくてよい」という価値観は、必要なときに目的のために利用するという合理主義の帰結である。

そこで行くと私は、自分の車だからこそ愛着がわき、着続けるから体に馴染む感覚に心地よさを感じる。利便性を求める時代には不都合な考え方である。

とはいえ、私のような人間は一定程度はいるはずである。だからこそアナログなレコードも売れるのだ。

購買の先に崇高な目的など存在しない。欲しい物を買って所有して、単に楽しむだけである。

無理に時代の価値観にあわせなくてもよいのだとも思う。


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