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だから自分は無料記事しか書かない

ついこの前、有名人のフォローを解除した。
気づいたら、書くもの書くものすべて有料になっていたからだ。
ニュースやブログの記事などネット上の読み物において、まだお金を払う価値を見出していない自分には、もはやこれ以上フォローしておく必要はなかった。

雑誌や本などは、立ち読みである程度の内容を事前に知ることもできるし、Amazonなどでレビューを参照することができる。
こちらがお金を払う前にある程度の見定めができるので、本当に価値あるものに対価を払うことになる。
もしかしたら他の一部のモノにも同じことが言えるかもしれない。
試供品とかお試し価格とか、試用版とか試乗車とか、同じことだと思う。

一方、web上の媒体は、お金を払うまでそのクオリティが未知数である。
もしかしたら誤字脱字だらけかもしれないし、ビックリするほど中身がないかもしれない。
そういうものに出会ってしまった時、「お金払うんじゃなかったな」という感覚が芽生えてしまうだろう。
事前に見定めができないから、こういうことに遭遇する可能性は、本や一般消費財に比べて高くなる。

昔、いわゆるニュースアプリをよく見ていたのだが、レコメンドされる記事にやたら有料のものが多く、ウンザリして使うのをやめてしまった。
ユーザー属性の特徴抽出とそれに対する記事のレコメンドの質は良かったのに、たったひとつ「有料記事を排除していない」という点が惜しかった。
(今ではもう直っているかもしれないが、やはり一度見る習慣が無くなると、なかなか再度使用するということにはならない)

ツイッターにおいても同様で、ニュースまとめアカウントが投稿しているリンクも、有料記事である場合がある。
見出しにワクワクしてクリックしたのに、中身が有料で見られなかったときのガッカリ感と言ったら、それはもう。


ただこれは、あくまで読者(消費者)側の立場である。
自分もこのnote上のように書き手側の立場になると、「自分の記事のクオリティで有料にするのは、ないよな」という気持ちになる。
同時に「読者のワクワク感を有料という制約で無駄にしてはいけないよな」とも思う。

個人的に、書き手がお金をもらってもよいのは、BtoCの構造が成り立っている時だけだと思っている。
例えば「こういう記事を書いてください」と誰かにお願いされたときとか、出版社の人に売ってもらったりとか、
そういう風に、明確にお仕事として成り立っているときだけじゃないだろうか。
誰からも頼まれておらず、誰にもチェックされずに、ただただほとばしったものでお金を取るなんて、なんだか違和感がある。


だから自分は有料記事は書かない。

だから自分は無料記事しか書かない。


フォロワー数1桁ユーザーによるおこがましい発言ではあるが、この気持ちを忘れないためにあえて記事にしておく。

(これも個人的な感覚だけど、基本的にnoteの場で優良記事を書いている人って、お金とかそういうのを抜きに「発信したいから」「書きたい(描きたい)から」という気持ちにあふれていると思う)

(自分も書きたい気持ちで書いているのだが、だからこそ商品でも納品物でもないのである。そういうものでお金を取ることは、自分にはできないな)

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