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音楽一家に生まれた話


私の中に胎内での記憶が眠っているとすれば、それは間違いなく、この世で最も美しいフルートの音色だろう。


私の両親はフルーティストだ。父は学生時代から音楽一筋で、難関だと言われるドイツの音楽大学にストレートで合格し、帰国して交響楽団のオーディションを受けたらすんなりと首席枠で合格した。いくつかのオーディションの合間に受けていたエキストラの仕事で出会った母と恋に落ち、二人でその交響楽団のある田舎に移り住んだ。

結婚して3年、男の子が生まれた。その5年後、今度は女の子が生まれた。それが私だ。その頃には父は田舎ながらも地域では中々名の知れた人となり、学校の講師のみならず多くの門下生に恵まれ、ホテルや式場でも演奏していた。母も子育てしながら音楽の仕事を精力的に続けるエネルギー溢れる人だった。そういう家庭に生まれ落ちた兄と私は、音楽だけでごはんを食べさせてもらって育った。


何にせよ、『そういう環境』で育つ子供がどんな道を歩むかピンとくる人もいるだろう。私も兄も2歳から音楽関係の教室に通い始め、家での練習の傍らにはいつも母がいた。兄は奏者としての才に富んでおり、私は平均よりもかなり音感が良かった。兄は両親と同じくフルートを手に取り、私はピアノを選んだ。自分の意思でかどうかは記憶にないが。ただ、いつか家族たちのフルートの伴奏をするのが夢だったのは覚えている。


小学生になると通うレッスンは大手の教室だけでなく、プロのピアニストにも師事されるようになった。将来の留学も見据えて英会話にも通った。それぞれの課題を掛け持ちし、年に何度かはコンクールにも出場するとなると友達と遊ぶ暇はない。当然寄り道は禁止、帰宅して18時の夕食までは練習、そのあと食休みを少しはさんだら21時までまた練習。そのあとは風呂に入って宿題をして眠る。年に数度、コンクールの直後だけ平日夕方までの外出が許可された。

私は義務教育が終わるまで、ただただずっとそのスケジュールをこなして生きていた。ピアノはとにかく練習量がものをいう楽器のひとつであり、プロになるには2歳から始めないと間に合わないという話すら耳にした。1日さぼると取り戻すのに3日かかる。家族旅行に行っても私は楽譜を持って部屋のテーブルを指で叩いていた。


辛くなかったのか、と大人になってから聞かれることがある。答えは「わからない」だ。正確に言えば「わかってはいけなかった」になる。

家族全員が同じ土俵に立っているということは、全員が同じ物差しを持ち、子供たちは評価され、それを以って家庭での扱いが決まるということだ。兄は私と違って本物の『神童』だった。私は「お兄ちゃんがあなたの年の頃はピアノでもこのくらいできた」と何度も母に言われ、銀賞を持って帰るとその日の夕餉はお通夜のようだった。練習中に隣に座る母は普段とは全く違う人格のようで、何度も私の頭を叩いては檄を飛ばし、コンクール前に調子が落ちると楽譜を破いて「恥をさらすな」とすら言われた。ごめんなさいちゃんと頑張りますと泣きながら、書き込みで元の音符も見えなくなった楽譜をセロテープで貼り直した記憶がある。

そう、音楽とは、人権そのものだった。少なくとも私にとっては。だからピアノを弾くことは好きとか辛いとかそういう次元のものじゃない。「生きるための全て」だった。疑問に思ってはいけない。何かに気付いてはいけない。私はただ、母に、家族に、愛されたかった。


しかし小学生の中頃から、練習中にトイレに行った時だけ、芽生え始めた「自我」に襲われるようになる。「これが私の人生?噓でしょ?ゲームや小説じゃない本物の人生?その1回きりの本番がこれ?」と頭の中に思考が巡り、そのあまりの恐ろしさに頭を掻きむしっていた。考えてはいけない。何かに気付いてはいけない。

21時が終わったら、10分後に「そろそろ風呂に入りなさい」と言われる。その10分間だけ泣いていいと決めていた。クッションに顔をうずめて、誰にも気取られないように、でもちゃんと涙を出し切れるように、毎日泣いた。そして「私は意味もなく涙が出てしまうんだなあ」と思っていた。何かに気付いてはいけない。


気付いてはいけなかった、のだが。

中学になると、友達ができた。練習時間を確保するために受験した学校だったけれど、私はそこでとにかく人間関係に恵まれた。ピアノを弾いてなくても皆私のそばにいてくれた。一緒にいて楽しいと言ってくれた。私が学校が楽しくてたまらなかった。学校がない日は、ずっとピアノの前に座っていないといけなかったから。

自我の形成と比例して、私はどんどんピアノが上手くなった。地元規模のコンクールで躓くことは無かったし、地方大会に進んでも成績を残せたので受賞者たちによる演奏会に出演することもあった。そういう場での私は「○○さんの家の子」で、将来が楽しみですね、高校はどの音高にするの?としょっちゅう聞かれた。兄はその頃芸大の付属高校でフルートを吹いていた。私は。私の人生は。これは本物の、一度だけの、人生。


中学3年の春、休み時間に遅れた英会話教室の宿題をしている時、友達に「どうしてそんなに頑張れるの?」と聞かれた。

私は「当たり前だから」と淀みなく答えた。そこに疑問など存在しない。

へえ、と相槌を打ったあと「俺には無理だなあ、それ続けるの。」と彼はこざっぱりと言った。


確かにあの瞬間だった、私の中の糸が切れたのは。ピアノを辞めて生きていく人生がもしかしたらあるのか?と生まれてはじめて思ったのは。

私はずっとピアノを辞めるのがこわかった。勉強もできず遊びも知らず教養も無く、ただピアノに時間を費やしてきただけの人生だったから。私からピアノを取ったら何も残らない。ピアノが好きで教室に通って音楽を楽しんでいる子を尻目に賞を取ってきたことだけが私の成功体験で、小さなプライドだった。親が褒めてくれるのは、応援してくれるのは、ピアノだけだった。

でも辞めるなら今しかないんだ、と思考が駆け巡った。音楽高校に進んだらきっともう引き返せなくなる。人生だ。これは人生なんだ。選ばなくてはいけない、たとえ家庭内での人権と天秤にかけることになるとしても。



私の最後の舞台は、中学の卒業式の伴奏だった。

私はピアノを辞めさせてくださいと、そして寮のある高校に行かせてくださいと、親にはじめて土下座をして頼んだ。今まで頑張ってきたのにどうして、と何度も聞かれた。「自分の好きなことを探してちゃんとやってみたい」と言うことは、親が人生をかけているものに対して「私はそうじゃない」と伝えることであり、それは親が私に費やしてきた時間とお金を無に帰すことでもあるとわかっていた。

でも、私はその業を背負って生きることを決めた。義務教育が終わったら私は扶養下ではあるものの家を出て、それからは一度も実家では暮らしていない。私はピアノを辞めて、あの家が求める「良い子」ではなくなったから。



これが、私の幼少期(という名の人生が始まるまでの期間)の話だ。

配信にしろ過去のブログにしろ、実は自分の生い立ちというものは詳しく発信したことがなかった。私は貴重な体験があるとその内容にかかわらず書きとめる性質があるのだけど、「こういう人生でした」とひとつに簡潔な形でまとめたら、私自身が自分を「そういう人」と扱うようになってしまうんじゃないかと思っていたからだ。

でも最近、色んなことを自分に許せるようになった。自分が自由であることを本当の意味で知った。いつだってなんでもできる。やってみたいことを始めるのに遅いなんてこともない。人生を誰かに許されないといけないわけじゃない。だから今ようやく書けた、そんな気がする。



母の腹の中で私は一度死にかけたと聞いたことがある。出血が止まらない母の子宮をエコーで見たら、必死にそこにしがみつくように私がちゃんといたのだそうだ。医者は奇跡だと言った。流産を確信して泣いていた母も驚いたと話していた。


その話を聞いた私は、「自分はどうしても生まれたかったのかもしれない」と思った。私が生まれたい理由がもしあったとしたら、絶対にそれを知らなくてはいけない気がした。

どうしても会いたい誰かがいて。

どうしてもやりたい何かがあって。

どうしても出会いたい何かがあると知っていたから、私は生まれたかったんじゃないかと、私はずっとそれを私の中の希望にしている。


生まれる前の私、私はあなたの出会いたかったものにもう出会えましたか。それを大切にできていますか。あなたの奇跡の根性に報いれるよう、悔いのないようがんばって生きてみているよ。



(生い立ちその後の話はこちら


だちこ

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