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小説:熟れたトマトに毒

大学生になって一人旅というのに憧れを強く抱いていた。でも昔から臆病な性格のせいで、知らない土地は怖かったから、何度か訪れたことのある京都に行くことにした。

日中は記憶にある観光名所を訪れたが、正直、新たな感動というものはなかった。京都の夕暮れはなんだかすごい素っ気なく、一気に夜の帳が下りてきた。僕はそれから逃げるように鴨川沿いの階段をおりた。片手に缶ビールを持ちながら、昼と夜の狭間をすり抜けて、川の流れとは逆方向に進んでやった。せっかく京都にきたのに新たな感動もない、やるせなさに抵抗したかったのかもしれない。

当時はコロナ感染が一度収まり、世間の人たちの外出がまた多くなっていた。川沿いは、友禅染めの人だかりのように、酔っ払いでごった返していた。それを横目で通り過ぎた。ここにも居場所がない気がして、早く橋に上がりたいと思った。上流の方に進んでいくと、宿泊先に一番近い上り坂が見えてきた。

潰した缶ビールが片手の中で所在ない面持ちでいる。宿でこいつの役目を終わらせてやろう、と坂を上り切ったら、その先に、一際目立つバーのような飲み屋があった。入り口には、パツパツのジーンズを履き、黒のTシャツに青緑のジャケットを羽織った、イケイケ風なおじさんが煙草を蒸して、気味の悪い顔でこちらの様子を見ていた。店内の明るい印象と相容れない感じが何故か目に留まり、飛び込むように店に入った。

初めてのカウンターバー、もっと言えば、初めての一人旅で初めての一人呑み。そんな状況にいる自分に、少し(いや、とても)酔いしれていた僕は、小さなホワイトボードに手書きで書かれた「スペシャルドリンク」なるものを一丁前に頼んだ。トマトの果汁が薄味で、酢のキツい臭いが香り、そして喉に違和感を残すアルコール、その全てが最悪だった。しかも、残暑ある9月にトマトは格別なので、つまみにトマトスライスも頼んでいた。格別にまずい。一気にトマト嫌いになりそうだった。

1杯目から気分は完全にブルーになっていた僕に、先ほど店頭にいたおじさんが話しかけてきた。「どこからきたんだ?」。僕は出身地を無愛想に答えると、「ママ!同じ出身だってよ!」と声を上げて、奥で調理をしているママを呼んだ。曰く、ママは僕の出身の最寄りの駅から、5駅ほど離れた場所に住んでいたらしい。同郷に会えたことに感動を覚えた僕は、ママがなぜここにいるのか、どんな学生だったのかあれこれ聞きたくて、前のめりにカウンターに上体を乗せていた。でも、ママは詮索するのは紳士じゃないと僕を一喝した。その後は、3人で何気ない談笑をしていた。僕の隣にきたおじさんは、(確か)ゲンさんと言った。ゲンさんは、高そうな時計をしていたけれど、髪はだらしないし、無精髭が整えられてなかった。ゲンさんは、自慢話を始める時には決まって、目線上のテレビを見る。そのおかげで鼻高な話が、もっと状態よく見えた。

しばらく時間が流れる中、その店の出入りは激しかった。長く居座るようなところではないらしい。キャバ嬢みたいな人がママと話で盛り上がってたら、突然連絡が来て出て行った。スーツを着た、オーラが薄いおじいちゃんが、牛すじ煮込みをつついて生小をちょびちょび飲んで、誰かを待っている様子。若いカップルが、後ろで日中のこと、この後のことを話して何やらいちゃついている、そろそろ出そうだ。ゲンさんは、その誰とも知り合いだった。ママ曰く、ゲンさんはここでは有名らしい。そんなゲンさんにも突然連絡が来たと思ったら、折り畳み財布から1万円を抜き取り、「次の店で待っている」と出て行ってしまった。僕は急いでその1万円で支払いを済ませ、ギラギラ光る看板の飲み屋に向かった。ゲンさんの隣には若い女の人がいた。今思えば、キャバクラみたいなところだったんだけど、僕は「誰ですか、彼女」とまた余計に口を動かす。

ゲンさんは、そんなことどうでもいいだろと言って、軽めに僕のことをしばいた。名前だけは教えてもらった気がするけど、クミさんだったか、ミクさんだったか、そんな名前だった。居心地が良くて、鴨川に携帯電話を投げつけて、余分なものを落としたかった。世界からの孤立と引き換えに、全身に糊付けされた子供の殻が取れて、大人の仕上げが出来ると思っていた。その時は、ゲンさんやママのような大人になりたいと心底に思ったのだ。

過去を聞いたところでなんの意味があるのだ。自分には良識がなく審美眼もない、人を見極める力もないのです、と押っ広げているようなもんだ。恥ずかしいことと思いなさい!全部、調べることができる時代というのはなんて無力な人を生み出すのか。目の前のにいる人物から手探りで、自分の眼で観て行こう。

そう意気込んでいたのに、僕は二軒目で力尽きていた。世界最上の幸福と絶望が一緒に押し寄せてきた気分で、自分の吐瀉物を見つめていた。ゲンさんは「またいつかな」と言って、去ろうとした。もう返事をする力が無いからなのか、それとももう会えないかもしれない悲しみに暮れていたからなのか、わからないが、僕は曖昧に返事をした。

結局、ゲンさんはどこの誰で何をしているのか判らなかった。どうしても確かめたくて朝戻ってみたら、店にはシャッターがなっていた。夜間の営業なのだろう。看板がなくて、いまだにあのママがいてゲンさんがいるバーみたいな飲み屋の名前を知らない。もしかしたら、あの夜の出来事は嘘なのかもしれないとも思った。でもそれでもいいと思う。真実も嘘も、僕にとっては現実だ。インターネットであの店を調べることもできたけれど、いまだに調べていない。

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