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『ダブドリ Vol.11』インタビュー05 伊藤拓摩(長崎ヴェルカ)

2021年4月30日刊行の『ダブドリ Vol.11』(株式会社ダブドリ)より、伊藤拓摩さんのインタビュー(聞き手:大島和人氏)の冒頭部分を無料公開いたします。なお、所属等は刊行時のものです。

日米で波乱万丈のキャリアを積み、B.LEAGUE初年度はアルバルク東京の青年指揮官として脚光を浴びた伊藤拓摩が、長崎に帆を下ろした。ゼロから立ち上がる長崎ヴェルカの初代GMとして、2021-22シーズンのB3へ漕ぎ出そうとしている。【取材日:3月4日】

― 伊藤さんは三重県鈴鹿市のご出身ですよね。実は私も小さい頃、鈴鹿市の南玉垣町に住んでいました。
伊藤 めちゃくちゃ近いですね。実家から5分くらいです。
― そんな鈴鹿で、どうバスケットボールに出会ったんですか?
伊藤 すぐ上に住んでいる4歳年上のお兄さんがバスケットをやっていて、そのお父さんがリングとバックボードを作ってくれたんですよ。
― 手作りですか?
伊藤 溶接工をされている方だったんです。でも横にドブがあって、シュートが少し外れるとチャポンと行く(笑)。
 そのあと自分も小3からミニバスに入ったんです。杉本和寿という先生が違う学校から赴任してきて、僕の担任になった。バスケは全くされていなかったんですけれど、顧問がいなかったので杉本先生に「来てよ」と言って……。
― 子供が先生を誘ったんですか?
伊藤 そうです。杉本先生は僕らが小6のとき初めて全国大会に行って、弟(大司/滋賀レイクスターズ)の代も行って、合計4回行かれているのかな?
― 伊藤大司選手と西村文男選手(千葉ジェッツ)は鈴鹿市立創徳中3年の全中で準優勝して、今も現役のB1選手です。元をたどると伊藤さんたちの逆スカウトだったんですね。
伊藤 面白い先生で、すごく人気がありました。シュートが入ったら誰より喜んで、子どもたちをノセるのが上手いコーチでしたね。
― 伊藤さんはモントロス・クリスチャン高校の出身で、後輩に伊藤大司、松井啓十郎選手(京都ハンナリーズ)、富樫勇樹選手(千葉ジェッツ)がいます。ただ23年前に、中卒後すぐアメリカに留学するのは相当な覚悟がいる挑戦ですよね?
伊藤 小6のときの土曜日に、ソファーに寝っ転がりながら『エア・タイム』というハイライトドキュメンタリービデオを見ていました。ちょうど母親が掃除をしていて「おかん、アメリカ行くわ」と言ったんです。そうしたら「いいよ」と。
― ずいぶん簡単にOKが出ましたね。
伊藤 「行けばいいやん」「いつ行くの?」みたいな会話だったのを覚えていますね。それは小6のときですけど、そのときの創徳中はちゃんとバスケットをやる環境になかったんです。3年生のときは、地区大会でも勝てなかった。自分も県内のチーム以外からは声がかからなかった。
 例えば能代工業から誘われたら、行ったかもしれないですね。「進路をどうしよう?」というときに、母の親友の、高校の先生が登場するんです。
― 高校の先生?
伊藤 田中ナナコという先生で「アメリカに行きたいなら紹介するよ」と言ってくださった。先生の知り合いの、知り合いの、知り合いがジョン・パトリックさん。
― KJ(松井啓十郎選手の愛称)の留学もパトリックさんの紹介と聞いています。
伊藤 彼が三重県にクリニックに来たとき、一緒に5対5をしました。ジョンさんがステュー・ベターというコーチを紹介してくれたんです。当時はモントロスじゃなくてセントジョーンズ高校のコーチをされていて、全米の1位だったんですよ。そういうチームを紹介できると言われれば「行きたい!」となりますね。
― ジョンさんはトヨタのコーチをされていた方ですよね。
伊藤 そのときはまだ選手をしていました(※編集注:1997-98シーズンはJBL2部の丸紅でプレー)。
― セントジョーンズはベターコーチの前任校ですか?
伊藤 そうです。それで僕が高校に行くときは、まず1年目に治安の良いオレゴンで1年間過ごしました。

「借金が1億あるから」

― 日本の中学は3月卒業で、アメリカは9月入学ですから、そのギャップもありますね。
伊藤 日本の中学を卒業してから向こうの中2……8年生をやりました。アメリカでは中学の最終学年ですね。英語の勉強をしに私立に6月から3ヶ月ぐらい通わせてもらって、さらにオレゴンの公立校に1年間。
 その年の夏に「ファイブスター」というバスケットキャンプにモントロスの選手と一緒に行ったんです。そこで調子が良くて「じゃあ、おいで」と言ってもらって入学が決まりました。
― セレクション、強化合宿みたいなものですか?
伊藤 違います。アメリカは色々なバスケットボールキャンプがあって、お金を払えば参加できるんですよ。夏休みが長いので野球とか、それこそ合唱のキャンプとか、もっと言ったらダイエットキャンプなんていうのもあります(笑)。
 ファイブスターは結構有名で、クリス・ポールも高校のときに行っていたキャンプです。1セッションに五百人から六百人が参加します。学校の寮に泊まって、日程は5日間ありました。
― レベルの高い選手が競い合うわけですから、それなりにタフな環境ですよね?
伊藤 当時の僕はホームシックってかからなかったんですよ。でも初めて親に公衆電話から電話して、泣きながら弱音を吐きました。
 オレゴン州でピックアップゲームをやると、上手い方だったんです。だから16歳の自分は「やれるんちゃうか?」と思っていた。でもファイブスターでアフリカ系のトップ選手を見たら、ドリブルも上手いし、リズム感を持っている。自分と同じくらいの年齢で、がんがんダンクして、アリウープを決める。
 初めて「NBAは無理かも」って思いました。無理なんですけど、でも子供だし夢を見てアメリカに行ったわけじゃないですか。
― でもそのキャンプで評価されて、モントロス入学が決まったんですよね?
伊藤 上手かったら上がれるんですけど、年齢ごとにNIT、NCAA、NBAと別れているんです。8年と1年はNITで、僕はそのカテゴリーで大活躍をした。それを評価されたと思います。
― 留学となれば、ご両親の経済的負担は大きかったはずですよね。
伊藤 もう亡くなっているんですが父(故・則昭さん)は、息子ふたりを母の手から離すと決めていたみたいです。彼は自分が若いときに、ヒッチハイクで九州まで行ったりして、そこで学んだ。だからアメリカにも「行け」と。「苦労しろ」「苦労しろ」と言われたんです(笑)。
 あとウチは太助といううどん屋をしていたんですけれど、地元では有名で、それなりに儲けもあったみたいです。
― 環境にはすぐ馴染めましたか?
伊藤 英語に慣れるのは早かったと思います。アメリカに行ったのは1998年で、インターネットがあるといえばあるけれど……という時期です。日本から本を何冊か持っていて、それを何十回も読んでいました。
― 今だったらiPhoneとかKindleで日本語はいくらでも読めますね。
伊藤 そのときはホットドッグプレスとか(笑)。それを何冊か持っていって、何回もそれを読むんです。
 でも決めていたんです。英語を学びたいから日本語を話さない。日本語を読むのも土日だけにすると。
― ストイックな16歳ですね。
伊藤 父親、母親が朝早くから夜遅くまで働いているのを分かっていました。今は母が一人でやっているんですけれど、父が小さい店から新しい家と店にした。親父から「拓摩、借金が1億あるから」って冗談ぽく言われて、お金がないのに留学させてくれたんだ……と思っていました。
 でも今考えるとね。めっちゃ儲かっていたんです(笑)。うどんなんて一番原価が低いですからね。当時はお酒もやっていたし、ツマミが売れるんですよ。
― そもそも繁盛していない店は1億円も貸してもらえないですね。
伊藤 服もボロボロのものを着て、やっと32ドルくらいのカッコいいシャツを買ったときも「ゴメン」と思いながら買ったのを覚えています(笑)。

アメリカでも他にいない存在。

― プレーヤーからコーチに軌道変更したのはどういう事情ですか?
伊藤 中3をやり直して、高校の最終学年のときに19歳になっていたんです。4年になるときにコーチから年齢制限でプレーできない、マネージャーだったらいいと言われました。NBAは無理だとしても、選手としてやれるところまでやろうと思っていた。それが無理と言われると悔しくて寝られなくて……。
― 年齢制限はご存じなかった?
伊藤 知らなかったです。メリーランド州は9月が年齢制限の区切りで、僕は6月で19歳になっていた。
 でも考えているうちに「コーチも悪くないな」と思い始めたんですよ。教えるのは好きだったし。朝方には「やりたい」になっていました。
― マネージャーという言葉は日米で少し意味が違うかもしれません。日本だと飲み物を用意するとか……。
伊藤 それもしていました。洗濯とか、練習の用意とか。当時の一番の師匠が、今ワシントン・ウィザーズで八村塁選手の育成担当をしているデイビッド・アドキンスです。モントロスでジュニアバーシティ(2軍)のコーチだった。僕はそのアシスタントコーチもやらせてもらった。
 モントロスは強豪なので有名なコーチが見に来る。実はミズーリ大からもマネージャーとして来いと言われていたんです。それはなぜかと言うと、僕は若いのに選手のワークアウトができる。NCAAはルールがあって、コーチは年間にこれだけしか練習を指導してはいけないと時間が決まっている。でも「マネージャーがしてはいけない」というルールは当時はなかったんです。僕の年齢でマネージャーをしながらコーチができる人は、アメリカ広しといえども、他にいなかったわけです。だからミズーリと、実際に進学したバージニア・コモンウェルス(VCU)の二校から話をもらいました。
 当時のVCUのヘッドコーチ(HC)はジェフ・ケープルと言って、NCAAでは一番若いぐらいのHCから熱心に誘ってもらった。フルスカラシップ(奨学金)をもらえると聞いたので、そっちに行きました。
― 大学もマネージャーの肩書でコーチをしていたわけですね。
伊藤 練習前とか、あとはオフシーズンですね。年齢が近いし、あと当時は「スキルトレーニング」がそこまでなかった。コーチよりマネージャーの僕にやってもらいたがる選手も沢山いました。
― 卒業後の進路はどう考えていたんですか?
伊藤 まず指導者、高校の先生になりたかったんです。
― 日本の?
伊藤 日本です。教えるのが好きだし、選手へ影響を与えるには高校生が一番いいかなと。でも大学3年生になったとき、プロで教えたいなという考えも出てきたんです。そんなタイミングで、ちょうどトヨタからアシスタントコーチのお話を頂きました。
― 当時のHCはどなたですか?
伊藤 棟方公寿さんで、ジョン・パトリックさんがまだチームにアドバイザーとしていたんです。
― 年齢は24歳ぐらい?
伊藤 実は高校を卒業して1年間、短大に行きながらモントロスでアシスタントをやっていたんです。何故かと言ったら、自分が高校を卒業するときに、4歳下の弟がアメリカに来た。モントロスでアシスタントをやらないかという誘いがあって、コーチをやりながらコミュニティ・カレッジ(公立の短大)に通っていたんです。でもVCUへ行く前のタイミングに、ビザの関係で日本に帰らなければいけなかった。その段階でちょっと色々あって、日本に1年半ぐらいいたんです。

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この後も、アルバルクのAC1人体制時代や転機となったGリーグでの気づき、そして長崎ヴェルカのことまでたっぷり話していただきました。続きは本書をご覧ください。

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