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『ダブドリ Vol.7』インタビュー07 DJ MIKO & ST & SOGEN

2019年9月28日刊行(現在も発売中)の『ダブドリ Vol.7』(ダブドリ:旧旺史社)より、ストリートボーラーのSTさん、SOGENさん、バスケットボール/ストリートボールDJ DJ MIKOさんのインタビューの冒頭部分を無料公開いたします。インタビュアーは大柴壮平。なお、所属・肩書等は刊行当時のものです。

2005年9月に「フロム・ザ・ストリート」を立ち上げて、bjリーグ開幕と同じ日にLEGEND開幕戦を行いました(MIKO)

大柴 『ダブドリ』は1巻目からSOMECITYが入っていて、その時から「LEGENDの話をしてください」という要望があったんです。まずはストリートボールとLEGENDを始めたところから教えてください。
MIKO 元までさかのぼると1990年代になりますね。自分は佐々木クリス(現バスケットボール解説者)と同じ桜美林高校(東京都町田市)でバスケ部だったんです。その後クリスは青山学院大学でバスケ部に入って。自分は大学へ入ってからはバスケをやらずにDJだけやっていて、イベントにクリスが来てくれたりしました。で、大学4年の時にクリスの家でAND1 のMixTapeを見せられて「これを日本でやりたいから合流してくれないか?」って言われて。
大柴 じゃあ、そもそもはクリスさん始まりだったんですか。
MIKO クリスと青木康平(元プロバスケットボールプレーヤー)、あとは今SOMECITYの運営をしているAJ(柴山英士/FAR EAST BALLERSの創始者)、元『PLAYERS』(かつて渋谷にあったバスケットボールショップ)オーナーの宮崎憲吾さん(現コンサルタント業)とかでやっていこうっていう時でした。そこで選手だけじゃなくてDJやスタッフたちも集まったんです。多分、自分たちが初めてストリートボールに就職したんですよ。新卒採用されました(笑)。
大柴 ハハハ。その時FAR EAST BALLERS(日本初のプロストリートバスケットボールクルー)はあったんですか。
MIKO 大学の時から活動はしてたんですけど、本格的に始めたのは2003年の4月から。その3選手と自分、あと数人のスタッフでした。当時はナイキのストリートのイベントがすごい盛んだったし、クリスはラッパーとしてもガンガンやってましたね。その頃にATSUSHI(伊藤淳史)がアメリカから帰ってきて加入して、今3x3でプレーしている岩佐潤(Seals.exeに所属/プロもストリートも知るプロボーラー)や仲西淳(“J-Walk”の愛称で知られる元プロボーラー/現在はライジングゼファー福岡のゼネラルマネージャー)とかもメンバーになりました。第1回トライアウトで練習生として合格したメンバーの中には、TANA(棚町義一/現バスケットボールアパレル“ballaholic” のデザイナー兼運営責任者)もいましたね。
あと、MC MAMUSHI(ストリートボールをはじめ、複数のイベントで大活躍するMC)もその後のトライアウトを受けに来たし、K-TA(鈴木慶太)はAJが「イケメンのヤツがいる」とか言ってある日連れてきました。
SOGEN ハハハハ。
MIKO 活動当初から当時ナイキにいた秋元凛太郎さん(現バスケットボール雑誌『FLY』編集長)のような大人の方々がサポートしてくれて、「自分たちは面白いことをやれてるな」とは思っていました。Dyckman(Dyckman Basketball Tournament/ニューヨークで最もレベルが高いリーグの1つ)にもトライしに行けましたし。ただ皆バイトしながらやっていて、やっぱり「これからどうなってくのかなぁ」っていうのが常にありました。そんな折、2005年夏頃に自分たちに惚れ込んでくれて、「一緒に会社やろう」と言ってくれる方が現れたんです。
大柴 すご。
MIKO その方と会社を作るタイミングで、秋葉直之さん(LEGEND/ALLDAY/Red Bull King of the Rock プロデューサー)もナイキを辞めて合流してくれました。秋葉さんはNPO法人「KOMPOSITION」もやられていて、2004年にそこが運営するイベントの中のミニバスクリニックで初対面。自分たちを面白がってくれた大人のなかでも特別な存在で、FAR EAST BALLERSに試合の場を与えたいという想いを持ってくれていました。それも原動力になって、KOMPOSITION主催でALLDAY(代々木公園で開催されているバスケットボールトーナメント)を立ち上げてくれたんです。その秋葉さん、さらに何人か集まって、2005年の9月に「フロム・ザ・ストリート」という株式会社を立ち上げました。そして同じ年の11月5日、西東京の公園であったお祭りに相乗りさせてもらって、奇しくもbjリーグ開幕と同じ日にLEGEND開幕戦を行いました。
大柴 じゃあシーズン1はお祭りで幕を開けたんですね。
MIKO はい。STはその時いたっけ。
ST 話はもらってたんですけど、そのとき僕はアメリカへ行くのがもう決まってた。でも途中で帰ってくることになって、途中から参戦した。
MIKO それだ。なんかそんな調子で時々来て、シーズン2はチャンピオンになってるんだけど、またどっか行っちゃったりして、好きな時に来るんです。SOGENはLEGENDが始まってる時にFARへ入った?
SOGEN いや、俺はシーズン4のグラチャン(グランドチャンピオン)のエキシビションに出たのが最初。その1、2ヶ月前ぐらいにFARと出会ってる。2007年の3、4月あたりかな。
MIKO 2人はどうやってバスケを始めて、どういうキャリアを積んできたの。
ST 兄貴がバスケやってて、「あんたも一緒に行きなさい」っつうんで小3から一緒にミニバスを。中学生の時はバスケ部が弱かったから、CHIHIRO(池田千尋/平塚Connections/TACHIKAWA DICE所属)がやっていたのと同じように、大人と一緒にやってた。で、全然うまくないけどフィジカルで圧倒しようとしてくるイヤな大人がいたりするような所でやるのが、どんどん普通になっていった。もともと日本でプロになろうという気持ちは全然なくて。中学、高校、大学はアメリカでプロになるための準備期間でいいやと思ってた。
SOGEN 俺は4つ上の兄貴がバスケをやってたのが、多分バスケをやることになった一番大きな理由。小学生の頃はずっとサッカーをやってたんだけど、家に帰ったら兄貴と家の前の路地で1対1をやってた。その後兄貴が高1、俺が中1になって部活入ってからは全然2人ではバスケしなくなった。でも中1の時、2、3年生の練習に混ぜてもらえなかったんです。基礎練習をやらされるのが嫌だったんで、その間、行かなかったんですよ。2年生になったら、もうすぐ引退の3年がいるだけなんですごく行きやすくなった。めちゃ下手くそなのに、2年生になってから偉そうに行き出して。
一同 ハハハ。
SOGEN 2年生の代になって、新チームとしてしっかり合宿で活動を始めたんだけど、その合宿の紅白戦で俺、Bチームに入れられたんです。それがめちゃくちゃ悔しくて。そっから毎日腹筋、あと縄跳びを死ぬほどやったんですよ。そしたら垂直跳びで普通にリングをつかめるようになって。夏から冬までの間に20cmぐらいジャンプ力が上がったから、それだけでいろいろ圧倒できるようになった。ボールを持ったら、人のいない方向に走って適当な所で跳んで(笑)。で、シュート打つみたいな。それだけでちょっと通用するようになって。
大柴 すでにちょっと、今のスタイルの面影があるんすね。
SOGEN そうですね。兄貴がマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)のビデオとかよく見てたんで、跳ぶことに憧れもあった。だから実際跳べるようになって、「やっぱこれが一番楽しいな」って。高校は地元の工業高校で、入って2日目で辞めた。そっからまた兄貴と一緒にバスケする日々。兄貴が高校卒業してそこのOBたちとクラブチームをつくって活動してたんで、兄貴にくっ付いて毎日ずっと一緒にやってた。だから15か16から22、23歳まではまったくストリートボーラーじゃなくて。
石川 どういう経緯でLEGENDへ参加することになったんですか。
SOGEN FAR EASTの練習に行くようになって1か月ぐらい。しょっちゅう行ってるバスケの練習場所にYOHEI君(野口洋平/SOMECITY大阪籠球会に所属)が現れて。彼も結構、FAR EAST BALLERSの練習以外はいろんな草バスケの練習に顔出してて。で「面白いな」みたいな感じで。会って次の週ぐらいに練習行くことになった。そっから次の練習の連絡とかが来るようになって。
MIKO そっか、じゃあそれでAJがSOGENを面白いと思ったから、エキシビジョンに誘ったんだ。シーズン4でLEGENDボーラー、ギガスピリッツ、あとATSUSHIプラスなんか面白そうなヤツ2人でエキシビジョンをやったんです。それがデビューだから、6から入ってきたんだよね。
SOGEN そうなんです。シーズン4のグラチャンのエキシビションで、まったくもって活躍できず、何のインパクトも残せなくて。で、4が終わってから5が1ヶ月ちょいぐらいで始まるという中、トライアウトがあったんですけど、そこでも全然ダメだった。で、けっこう落ち込んでる状態でしたね。この間に、FAR EAST BALLERSがLEGENDを抜けるんですよね。
大柴 そこ、重要な転機ですよね。
SOGEN はい。抜けると同時にSOMECITYを発足させる流れの中で、俺はSOMECITYのほうに乗ってた感じっすね。でもSOMECITYで少しプレーしてたら、「シーズン6に参戦しないか?」って秋葉さんに言われて。

LEGENDをバスケ好きじゃないと楽しめないものにしなかったことが、ほかとは全然違うところですね(ST)

大柴 多分、知らない読者も多いと思うんで、まずはLEGENDのシステムを教えてください。MIKOさんはシステムを考えた側ですよね。なんでそこに行き着いたのか、そしてどういうシステムだったのかを教えてもらえますか?
MIKO 簡潔に言うと、個人参戦・個人ランキングのバスケリーグ。参戦選手をシャッフルしたその日限りのチームで3対3のゲームを1シーズンやり、勝利ポイントを個人に付けてランキングをつくり、ランキング上位者でグランドチャンピオンシップを行います。元々は普通にチーム参戦によるリーグを考えていたんですけど、そんなにチーム数がなかった。でも個々ではSTみたいなのが散見されるんで、「じゃあ個人参戦でぐちゃぐちゃにしてやっていけばいいじゃん」となりました。それがLEGENDが発明された瞬間です。ただ日本のストリートボーラーって、ストリート=3対3と思われることにコンプレックスがあって、自分たちも嫌だったんですよ。だから本当は5対5をやりたかった。でも現実にはフルコートを作れないし、場所もない。日本の環境でやっていくとしたらハーフ。そして選手の人数的にも3対3になったんです。
大柴 頭数と箱の問題かぁ。
MIKO 当時はいま以上にバスケはやるもので観るものではなかった。でもみんな『SLAM DUNK』は読んでいた。だから『SLAM DUNK』みたいなキャラ立ちしたリーグを目指すと同時に、いろんなショッピングモールの広場にこっちから出向いて、一見さんの前でやり続けることで、少しずつファンを増やしていくっていうのがLEGENDのやり方だったんです。普段は無料、最後のグラチャンだけお金をいただくっていう。本当、3x3にそっくりだよね。
ST うん、やってることは一緒です。チームで参戦してるかどうかなだけ。
大柴 で、MIKOさんが、今の3x3のようにDJをして。
MIKO 僕がDJで、MAMUSHIがMCっていうのがLEGENDでした。じゃあSTから、LEGENDの魅力を教えて。
ST どれだけいびつな思想を持っていても、プレーで証明すればまかり通るのがLEGENDの一番の魅力でもあり、罪深い部分でもあった。「俺はもう一切パスしない」「俺は1対1しかしない」っていうヤツがいたとしても、そいつが勝てるとなると、1つの肯定軸として成立し得てしまう。仮エース(SOMECITYでは「勉族」の一員として活動)みたく、もう練習なんて週1するかしないかのヤツでも、実際のゲームだとめちゃくちゃアホみたいに点を取るってのもアリみたいな。勝つためだけじゃダメ、でも勝たないとダメだしっていう狭間の中、本当の意味でキャラ立ちが板に付いてきて、無理しない中で本当に自分の中にある1つの側面を拡大解釈したり、出してなかった素だったり、そういうのを皆が持ち寄ってやり出した。それでリーグとしての魅力というか特異性が一気に出たなって感じた。
大柴 変な話、STもキャラとしてSTになったというか。
ST 普段はニコニコしてるほうだけど、小さい頃からスポーツで勝ち負けが絡むと、異常な変身を遂げる癖があって。別に自分はそれで苦労はしてないけど、周りが大変そうにしてるな、っていうのはあった(笑)。ただ、それに対する配慮よりも「このゲームに勝ちてぇんだよ」っていうほうを優先する。そうしている中でストリートに来た時、STになったっていうのも1つの転機なのかなって。当時はプロレスでいうとベビーフェイス寄りの選手、それこそクリス君とか、逆輸入って呼ばれてたTAIKI(堤太輝/LEGENDでプレー後、自分のチーム420【Fourtwenty】を作り、SOMECITYでプレー)とかがいて、活躍すると女の子たちが盛り上がるようなキャラが多くて。だったらヒールみたいなキャラも必要だ、っていう話があった。途中から参戦してたんですけど、基本的に僕、最初のLEGENDの時は笑っちゃいけないルールだったから。
大柴 え、あれは自分で考えた設定じゃなかったんだ。
ST いや、秋葉さんが考えた。最初、冗談半分で言ったんだけど、スポーツの勝負の場にいる自分は……。
大柴 無理なくそれをやってたわけね。
ST そうそう。『ミューズ』っていう、コービー・ブライアント(元ロサンゼルス・レイカーズ)のドキュメンタリーがあって。コービーがブラックマンバ(コービーの愛称/世界で最も多くの人間の命を奪った毒ヘビとして知られる危険なヘビ)っていうのを自分の中で定義したのが2003年から04年にかけて起きた裁判(性的暴行疑惑)の時とかだったらしく、ブラックマンバっていうのを自分の中で定義して「相手をぶちのめすだけの人間」としてフロアに立つって言ってたんです。それを見て、自分の中では普段のタケイシュウジと、フロアにいる時はSTとして立ち振る舞うということの整合性が取れるようになっていった。
MIKO プロデューサーの秋葉さんはプロレスが大好きなんですけど、バスケはやったこともないし、別に好きでもなかったんです。だけど『SLAM DUNK』は好きだった。そこが発想の出発点で、秋葉さんが楽しいって言うんだったら、きっともっと多くの人が好きになるんじゃないかな、って。
ST LEGENDをバスケ好きじゃないと楽しめないものにしなかったことが、3x3やSOMECITYとは全然違うところですね。
MIKO あとは各個人をフィーチャーした映像に力を入れていた点。秋葉さんは「箱根駅伝をやりたかった」って言うんですよ。箱根駅伝ってめちゃめちゃ見る人多いじゃないですか。あれって映像としては黙々と走ってるだけなんだけど、バックに何があったかっていうのをすごく丁寧に紹介するから、観る人は感情移入できる。それをお手本にしました。LEGENDの選手はメディアトレーニングなんてしてないのに、しゃべれなかろうが四六時中カメラを回される。するとだんだんしゃべれるようになっていく。その中の筆頭がこの2人でした。
大柴 ハハハハ。

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この後もまだまだ続きます!「青春がもう一回きた」と言われるLEGEND、その真意は......。続きは本書をご覧ください。

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