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『ダブドリ Vol.1』インタビュー05 TANA(ballaholic) & K-TA(F'SQUAD)

2017年11月30日刊行の『ダブドリ Vol.1』(株式会社ダブドリ:旧旺史社)より、TANAさんとK-TAさんのインタビューの冒頭部分を無料公開いたします。なお、所属等は刊行時のものです。

自分たちのように活動していくボーラーを、その地その地で作らないといけないなと思った。ストリートボールって、もっと皆のものにならないと。

大柴 7月26日行ったんですよ、SOMECITY。あの日は“YOU THE MAN”にK-TAさんが選ばれて。
TANA ああ。
K-TA 一番良い時に。
大柴 ヤバかったですね。僕、実はスーパー老けて見られるんですけど、タメなんですよね。
K-TA え! すみません、凄い驚いちゃったけど。すみません。
大柴 ハハハ。こないだ50とか言われて(笑)。
一同 ハハハ。
TANA 本当っすか。
K-TA ちょっと大柴さん、貫禄があり過ぎますね。81年生まれですか。
大柴 81年なんですよ。
K-TA 同い年っすね。正真正銘の。
大柴 いや、そうなんですよ。だから、タメなのにバリバリ現役だなと思って見てましたよ。で、盛り上がりも凄くて。
TANA そうすね。あの日は面白かったっすね。その日、その日で違うんですけどね。
大柴 やっぱ興行やってるとあります?
TANA ありますね、やっぱり。リーグ戦ずっとやってると。トーナメントだとどんどん勝って、最後に優勝が決まるっていうストーリーがあるんで盛り上がりが作りやすいんすけど。リーグ戦だと当たり外れみたいなのがありますね。
大柴 なるほど。で、単独でのインタビューは結構やられてると思うので、今日はK-TAさんとTANAさんの2人の歴史みたいな視点でインタビュー出来たらと思ってるんですけど。
K-TA 長くなりますよ(笑)。
大柴 大丈夫です、よろしくお願いします(笑)。一応K-TAさんについては、ストリートをFAR EAST BALLERSで始めたっていうのはMark Tonightで予習してきたんですけど。
K-TA・TANA アハハ。
K-TA 2人とも一緒なんです。FAR EAST BALLERSから。
大柴 練習生として入ったって。そこら辺の話からお聞きしようかなと思います。それが20代前半の頃ですよね。
TANA 19とかだったかも知れない。
K-TA 03年とか。多分19。そうですね。
TANA 全然それまで接点なくて。僕はモト君と一緒で、美大行ったんですよ。違う美大ですけど。
大柴 はいはい、美大系なんですね。
TANA はい。で、バスケットはなんか「ま、美大だし」みたいな感じで、ちょっと区切りをつけようかな位で。
大柴 美大は美大で、美大リーグがあるんですよね。
TANA そうなんです。実はそれがまた盛り上がってて、もう1回火付いちゃうんすけど。で、たまたま高校の時の友達に誘われて出た3on3の大会があって、そこに日本で活動し始めたばっかのファーイーストがエキシビションみたいな感じで来てて。毎日新聞か何かの、お台場かどこかでやった結構大きなやつで。
で、それのエキシビションとなんかまあ、当時のフリースタイルの始まりっすか。それを僕がたまたま見て、衝撃的で。まだ当時は誰もやってなかったダボダボのオーバーサイズ着て、もう見るからに全部新しかったんすよ、プレーもスタイルも含め。そこでたまたま僕が「トライアウト受けに来なよ」って誘ってもらって。で、僕はそれでFAR EAST BALLERS……当時はFar East Ballsって名前だったんすけど。その初めてのトライアウトに参加したっていう感じです。
大柴 そうなんですね。
TANA そこで僕が練習生として合格してまたどっぷりバスケの生活になって。平日は週2とかの練習で、祝日とか休みが1日イベント。で、ファーイーストの練習じゃない日も色んな所の体育館行って練習しに行くっていうライフスタイルだったんです。そん時に、なんか1人面白い奴がいてみたいな話があって。
大柴 TANAさんの方が先にファーイーストに入ってたんですね。
K-TA はい。で、2人の接点がMAMUSHIなんですよ。
大柴 ああ、はいはい。
TANA MAMUSHIが実は僕と同じ美大だったんすよ。
大柴 あ、MAMUSHIさんも美大生。
TANA そうなんです。
K-TA MAMUSHIは俺の大学の一緒につるんでた同級生の後輩だったんです。で、俺は大学で最初、部活入ってて、バスケでプロになりたい位な感じの、野心メラメラで入ったんですけど。でも途中で挫折して「駄目だ、できない」ってなって部活辞めて。その後は結構フラフラしてたんですけど。でもくすぶってたんですよ、バスケに対してなんかこう「やり切れてない」みたいな。
 その時に丁度MAMUSHIもTANAと一緒でファーイーストの練習生になって、それでTANAとも何回か同じバスケの体育館に居合わせたりして、ちょこっと接点あったんですけど。ある日MAMUSHIがファーイーストの一番ボスというか、リーダー格のAJを体育館に連れて来て。
TANA 今、上司ですけど、アウトナンバーで。
大柴 あ、そうなんですか。
TANA 凄え今繋がってんすよ。で、そのAJと僕がMAMUSHIとプレーしてたK-TA君のところにお邪魔しに行った時に出会って。
K-TA 一緒に1回ピックアップゲームで普通にバスケして、終わった後に「ちょっと来い。お前、バスケで飯食いたい?」って言われたんです。で、俺は「ハッ? この人、何言ってんだ?」みたいな。で「あ、はい」位の感じで答えたら「来年ストリートのプロリーグ作るから、お前興味ある?」って言われて、また「あ、はい」みたいな感じで、そこからです。
大柴 それがLEGEND。
K-TA はい、それが結果的にLEGENDだったんですけど。もともとそのFAR EAST BALLERSは日本初のプロストリートボールクルーって自分たちで謳ってて。それを実現するために自分たちでストリートボールにプロリーグを作ろうってずっと活動してたんで、そこになんかいいタイミングで乗っかったというか。
大柴 個人戦だったんですよね? 僕はちょっと残念ながらLEGENDの頃全く知らなくて、見てなかったんですけど、毎回チームを分けてポイントは個人に付くって聞いたんですけど。
TANA そうです。要はまあ、そういった面白いボーラーっていうか、何かしら武器を持ったボーラーたちが集められて、それぞれ個人で契約するんですよ。
大柴 リーグ対個人。
TANA そうです。で、その日の組み合わせがまあ、シャッフルなわけですよ。みんなバラバラになって。もちろんファーイースト所属はあるにせよ。
大柴 あ、そっか。
TANA そうなんですよ。LEGENDでは関係ないというか、敵にもなるし、味方の日もあるし。それで勝ち点もあって、多く勝てばその分ポイントが付いて、個人ランキングが上がって、最終的に上位何人かが最後のグランドチャンピオンシップに出場して。で、そこで優勝したらLEGENDになるみたいな仕組みだったんです。                                                                                      大柴 なるほど。
TANA それがシーズン制で、僕らはシーズン1から4まで。最初から入って、4で抜けました。
大柴 そうなんですよね。LEGENDがまだ人気も結構あった中、離脱して。
K-TA そうですね。
大柴 で、自分たちで自分たちのリーグを作ろう的なことだったんすか。
K-TA・TANA そうですね。
大柴 それが後のSOMECITYになると。LEGENDを辞めた時にSOMECITYの構想はどの程度できてたんですか?。
TANA いや。
K-TA 何も考えてない(笑)。まだ正直そん時は全然なんかこう、将来的にこうしたい、リーグをとか、SOMECITYをとか、そういうビジョンはほとんど。
TANA どっちかって言うと、それまでやっぱしプレーしてお金を頂くっていう感覚だったんで、自分たちでどうしていったらお金が増えてみたいな、今みたいな考え方には到底まだ至ってなくて。でもやっぱし自分たちを引っ張ってくれた上の人には理想というか、ビジョンがあって、それに僕らは共感して「だったらそっち行きます」位な二つ返事で。
大柴 その上の人っていうのはAJさん。彼がLEGEND辞めて、SOMECITYやると。
TANA そうです。
大柴 個人戦じゃなくてチーム戦だってところ以外に、AJさんがLEGENDを抜けてまでSOMECITYに求めた理想っていうのは何だったんですか。
TANA まあ一つは、プレーグランドを増やしたいってのがあったと思います。LEGENDではzeppツアーとかで全国回らせてもらって、それは凄い僕らも良い経験になったんですけど、結局やってる層が僕らだけだった。
 大阪行っても僕らがプレーする。福岡行っても、札幌行っても。それは僕らとしては、凄い嬉しいことなんすけど、でもこのシーンをどんどん上げてくには、そういう自分たちみたいに活動していくボーラーというか、人間を増やしていかないといけないなっていうのが確かにあって。やっぱしその地、その地で手を挙げる人間を作っていかないとねっていうのが一つあったんですよね。
僕らはあくまでも東京で活動して、もちろん、色んなとこに出向いてプレーはするものの、他の土地でも作り上げていく何か仕組みがないといけないんじゃないかと。
大柴 それで今、大阪とか福岡とかあるわけですね。
K-TA そうですね。まあ、LEGENDはLEGENDでやっぱこう、自分にフォーカス当てられるんで気持ち良いんすけど、やっぱもともとそのFAR EAST BALLERSはもっとコート作りたいとか、ストリートボールをもっともっと盛り上げたいとか、バスケットボールをもっと日常のものにしたいという思いがあって。正直どうやったらLEGENDというものを通して実現できるのかっていう悩みを抱えてました。
 やっぱストリートボールって別に俺らだけのものじゃなくて、もっと皆のものにならないといけないなっていうところで、SOMECITYに繋がっていったっていうか。
大柴 最初はSOMECITYができてからもお2人は運営ではなく、一プレーヤーだったということですよね。
TANA そうですね。
K-TA 一応みんなで会社を立ち上げて。
大柴 あ、もうその時に会社の立ち上げがあったんですね。
TANA はい。でも最初に集まったお金では、皆を社員としてっていう状況には到底ならない話だったので、最初はAJと自分が、お給料をもらう形で活動してたんです。

見切り発車で始めたものの、最初の2戦で資金がショート。色んな人から「お前らには無理だ」と言われた。

大柴 それでどうしてお2人が運営する今の形になっていったんですか?
TANA 僕の高校時代の友達がたまたま、ウェブを作る会社にいたんです。で、AJからSOMECITYを広げていくに当たって「色んな人をとにかく紹介してくれ」と言われてたんで、僕も色んな人に当たってたら、その友達が「うちの会社がちょっと興味持ってる。うちの社長が相当クレイジーな人だから、話しにくれば」って。
 そこで僕とAJが行って、プレゼンというか、思いを語ったら、そこの社長がすぐ「分かった、じゃあウェブはもうタダで作る。お前らやってること面白いから」って。スポーツ大好きな方だったので「子どもたちがバスケットする絵がこれから増えていくんだったら、俺は全力で協力するよ」と言ってくれて。
 そこから、当時オネトムって会社だったんすけど、そのオネトムさんにウェブを作ってもらって、関係が始まるんすよ。で、まあそれでも僕ら当初集まったお金というか、協力して頂いたお金でやってたものの、やっぱその、全然……。
K-TA やっぱ全然分かってないんで、見切り発車でプレリーグっていう形で5、6開催位を予定して始めたものの、最初の2戦で資金ショートみたいになったんです。で、もう金ないし、なんかこう……。
TANA 場所だけバババっと抑えて。チッタ、スタジオコースト、チッタ、みたいな。今考えたらとんでもない。スタジオコーストって、コート作っても千ちょっと入る凄い広い会場なんすけど、そこでまさかの百何十人っていう。
K-TA まあ、もう、見切り発車で始めたものの、全然想像してた物の本当にはるか下の動きで、全然上手くいかなくて。
TANA プレリーグの開幕戦だけチッタがパンパンだったんすよ。それは今見てもやっぱ凄い絵な位。
K-TA リーグ始めて6、7年目位まで越せないぐらいの開幕戦だったんですけど、次からはポーンって。
TANA 開幕戦はなんかファーイーストが面白いことやるぞみたいな感じでSOMECITYをバーっと見に来てくれたんすけど、やっぱリーグ戦にするともう次から次にあるわけです、試合が。てなった時に、なかなか。今みたいに色んな手を打ててるわけでもなく。
大柴 で、2試合で資金がショートして?
K-TA で、まあちょっとAJも個人的なトラブルがあって、会社を抜けるっていう話になって。
大柴 ああ、そうなんですか。
K-TA で、残されたメンバーで、この状況どうしよう。
大柴 大ピンチですね。
K-TA もう畳むか、どうするか。
TANA どっちかになったんです。本当そん時、まあ、何だろう。究極ですけど、もう辞めろよっていう声が結構あったんすよ。僕らの周りからも「もうSOMECITY潰せよ」みたいな。「お前らじゃできないし」って。まあ、やっぱその、なんだろうね、あん時「人ってこんな変わるんだな」っていう位。僕らをかわいがってくれてた分ってのもあるんでしょうけど。
K-TA 「お前らには無理だ」って、今考えたらそう言われるのもしょうがなかったなと思います。正直、それまで2人とも目上の人におんぶに抱っこで、言ってしまえば乗っかってただけだったので。自分たちのプレーだけだっていうそこの信念だけで、ビジョンとか運営とかっていう部分は、本当にただ乗っかってただけだった。いざ俺らでどうするってなった時にこう、本当にギリギリまでずっと「どうしよう」と。
TANA でもやっぱし中には「いや折角良い物作ったんだから、絶対辞めるな。続けていかないと駄目だよ」って背中を押してくれた人たちもいて、そこでやっぱやろうっていう気持ちになったんすよ。だから、そん時はもう……。
K-TA 2人で深夜のファミレスか何かで、終電無くなる前位から話してて「どうしようか……」みたいな。無言のまま朝の5時位まで2人でずっと。
大柴 ハハハ。
K-TA どうしようか、どうしようかしか言ってないんです。
TANA 1日じゃなくて、その期間ずっとそういう生活だったんす。だから僕、結構覚えてるんっすけど、K-TA君、当時ビッグスクーターで、僕らもお金ないし、結構K-TA君の後ろで送ってもらってたんすけど、朝方まで話して。今となっちゃ、まあ覚えてないかもしんないすけど、このK-TA君が僕に「いやマジ、ノイローゼになるわ」みたいな。
K-TA 嘘、言ってたっけ?(笑)。
TANA いやいや、僕凄え覚えてて。何て言うんっすかね、人間って凄い怖いなあって思ったのもやっぱ、そん時だったし。逆になんかこう、そこで声掛けて「いや、俺だったら協力するよ、絶対続けろよ」って言ってくれた温かさも感じたんす。
 そん時はだから、どっちかって言うとここで何をするっていう考えより、メンタルの方が凄い揺さぶられて。僕は結構辛いことすぐ忘れるんすけど、その数年後もやっぱK-TA君は何言われたとか、結構、一言一句覚えてたり。
一同 ハハハ(笑)。
TANA いや、でも、それは凄いなと思って。僕は多分辛いから忘れちゃう。
K-TA 記憶ごと。
TANA 記憶ごと「そうだっけ?」位な感じで。
K-TA 俺は、ま、確かにちょっと覚えてますね、そこら辺のことは。開催飛ばして……2戦目までで、3戦目から飛んだんだっけ、プレリーグは。
大柴 やっぱ飛ばしてたんすね。
TANA もう覚えてない(笑)。
一同 (笑)。
K-TA 飛ばした時も確かコーストだったんですけど、直前でもう中止にせざるを得なくて。一応、中止ってホームページには書いたんですけど、当時まだウェブがそんなに効力が無いから、実際にそれを見ないで来る人とかも当日いるんじゃないかって。だから当日早めに行ってコーストの前でピシっと立って……来た人、何人いたかな。10人前後位だったんですけど、来た人に「すみません、本当にすみません」って謝ったの覚えてるし。
 でもそん時に、来てくれた人1人も怒んなかったんですよね。それは凄い覚えてて。「また楽しみにしてるんで、頑張ってください」みたいな、逆に励まされたの覚えてて。
大柴 なるほどね。で、その状況から。
K-TA 続けよう、やろうって決めて。
大柴 それはもう今の、お2人が主導してる形。
K-TA 2人でどうするかを決めました。

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このあとも、まだまだ続く無給時代のことや「本気の遊び」とストリートボールを形容するワケなどたっぷり語ってくださっています。続きは本書をご覧ください。

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