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時は今 天が下しる 五月かな

この句は明智光秀が京の連歌会で読んだ句と言われています。
ちょうど、本能寺の変が起きる1ヶ月前。
この句がなければ、明智光秀の謀反の真意がますます迷宮入りするところでしょう、個人的にはかなり興味深い一句です。

信長から厚い信頼を得ていた光秀

織田信長は、明智光秀を厚く信頼していたようです。
その証拠に、光秀の領土は、信長の領土から最も近い位置にある福知山、坂本付近が領土でした。
なぜかというと、数多くの合戦で武功を立てたからです。金ヶ崎の退き口や比叡山焼き討ち、一向宗との争いなどでの活躍が私が知っているところです。
 信長の命をたくさん守り、また有名な位置まで上げた、その一翼を担った光秀が裏切りをする。考察するのが、とても興味深い話です。

朝廷に近い位置にいた光秀

光秀は、現在の岐阜の恵那のあたりの出身と言われています。斎藤家没落後は、越前の朝倉の元に移り、その後は縁あって京の足利義昭に仕えます。この頃に、幕府側のお世話になりました。
義昭の家臣、ということで朝廷にもある程度の知り合いがいる光秀。そのこともあって、信長は近くに光秀を置くことで、朝廷との顔つなぎも兼ねていたのかもしれません。

勤勉の光秀と大胆の信長

苦労も重ねたためか、光秀はかなり真面目な人物、という見方がよくされています。それだけに、比叡山の焼き討ちや一向宗の撃破などは、光秀にとって少なからず思うところを産んだかもしれません。
対して信長は、戦国時代にあってかなり先進的な人物です。いち早く外国のものに興味を持ち、産業に力を入れた。さらに、行動力がかなりあるため、真面目な人間からはとても想像のつかないことを平気でやってのけます。
 慎重派の光秀と積極さの信長。きっとそこの違いに大きなストレスを生じさせたのかもしれません。

光秀のその後

本能寺の変後は、光秀に味方をするものが少なく、懇意にしていた細川藤孝さえも味方につきませんでした。光秀の中では、強い正義感のもと「話せばわかる」という考えで各国の大名に声掛けをしたのでしょう。あるいは、誰も味方につかないことを悟った上で、光秀自身も死を覚悟しての行動かもしれません。
いずれにしろ、この句は自分の行動を示す、とても秀逸な句で、本当に頭のいい方だったんだな、ということが伺い知れます。

戦国の乱世だからこそ輝く織田信長。しかし、日常の平和の中にいたらどうでしょうか。それこそ、「怖過ぎて近寄れない」とか、「考えが合わないから避けよう」と言う人も多いかもしれません。
平常では、誠実、真面目な光秀の方が信頼を集めるでしょう。しかし、明日は死ぬかもしれない、という戦国時代。真面目で遠回りな道も選ぶ人よりも、生きるためにやむを得ないことも平気でできる人についていく人が多いのでしょう。
信長と光秀。そして、本能寺の変。興味深いものですね😊
考察、楽しみながら勉強しようと思います!

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