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#02『鬱のち曇り、ときどき、何か』「鬱は治らないが、悪くない」

 前回は、鬱になると「ネガティブの沼」にハマり込むという内容だった。その中で終盤に「一度鬱になった人間は、なる前の自分には二度と戻れない」ということを書いたのだが、今回は、そのことについて、もう少し詳しく書きたいと思う。

 「二度と戻れない」などと聞くと、まるでホラー映画でゾンビに噛まれた人物が、次第にゾンビへと変容していくような言い草だが、僕はこの比喩は、あながち間違っていないと思っている。

 当然、ゾンビのように肉体が一度死に、意識を失った状態で蘇生し、人肉を欲しながら徘徊を始め、徐々に身体が腐っていくようなことにはならないが、鬱になる前と後とでは、精神状態が全く違うものへと変容するのは事実だ。

 はじめに断言しておくが、鬱は治らない。

 専門医から診断されたかどうかに関係なく、一度、社会性を失うほどに鬱状態になってしまった者は、たとえそこから、どうにかこうにか這い出して、社会復帰をし、まるで鬱が完治したように思えるほど元気になっても、心から(最新医学としては「脳から」と、言い換えても良いかもしれないが)は、完全に鬱を追い出せない。

 鬱に完治は存在せず、寛解かんかいのみがあるだけで、人生をかけて、距離をとりながらも、死ぬまで付き合っていくことになる。

 こう聞かされると、お先真っ暗になる人もいるかもしれないが、鬱の寛解状態は、決して悪いものではない。
 むしろ僕は、鬱になって色々と大変な目にも合ったが、なる前の自分に戻りたいかというと、全くそう思わないのである。

 今回は僕が経験した、鬱になった後で変わったことと、鬱が自分の人生にもたらした効能を、書いていこうと思う。

 一つ注意してほしいのは、今回の内容は鬱からある程度立ち直ったときの状態であり、鬱の真っただ中でおきる状態ではないので(それに関してはまたいずれ書きます)、そこは間違えることのなきように、お願いしたい。

他者への、感度センサーが敏感になる

 これは僕にとって、鬱がもたらした最大の効用と言っても良い。しかしそれは、一概に良いことだけとは限らないのだが……。

 まず他者への感度が上がるということは、相手を思いやることが出来るようになる、ということだ。
 人として他者を思いやるのはある程度、当然のことだと思うが、鬱になった者は自身の心が、他人からは想像もできないレベルで落ち込んだ経験があるので、「自身の経験した心の痛みを、他者へも与えてしまわないだろうか?」という思考回路が形成された状態で、他者とのコミュニケーションを図ることになる(と、僕は思いたい)。

 それは、他人の心の中にある繊細な部分を想像しながら生きる、ということになっていくのだが、これがポジティブな効用だけかといえば、そうではない。

 他人の心を想像しながら生きるということは、口数が減る、ということでもある。「こんなことを言えば、相手は傷つくだろうか」とは、鬱でなくとも一般的に考えるだろうが、その想像が極端に飛躍してしまい「何を言っても、誰かを傷つけてしまうのではないか」というような思考になる。

 僕自身、社会復帰してからの一年間は、この状態に陥り、職場のコミュニケーションも、質問への返答と、日常の挨拶、当たり障りのないリアクション程度しかできなくなった時期がある。

 また同じ時期に起きた変化としては、他人との距離感を以前よりも重要視し始めた、というところである。

 これも人として当たり前の話ではあるが、この距離感を重要視する対象が、相手ではなく自分に向いた、という変化が特徴的なのだ。

 鬱になれば、これまで以上に相手の心に気を使うようになる。と書いたが、これは相手を思いやっているのと同時に、それ以上に自身も傷つきたくない、という防衛心理が働いている。
 よって、自分の心を守るために対手との距離感を保とうとするし、極端な場合、傷つきそうになったら、問答無用で心の扉を完全に閉じてしまうのである。

 なので、これまで気軽に連絡を出来ていた友人や恋人にも、連絡をしなくなる(厳密には、できなくなる)のだが、それは相手のことを嫌っているのではなく、むしろ好意的な関係にある相手だからこそ、より一層傷つけられたくないと考えてしまい、自分を守るために距離を取るのである。

 もし周りに、鬱状態に陥った友人、知人、恋人がいる方は、いま一度アプローチを思いとどまって、長い目で見守ってほしいと思う。

鬱は、本当の善意を生む

 これまでの書き方だと、この感度のセンサーが、高まったことによってコミュ障になるような印象を与えてしまうかもしれないが、このコミュ障状態は(これはあくまで僕の場合ではあるが)、時間と経験を積めば、ある程度は鬱以前の状態まで緩和してくると思う。

 既出のエピソードは、復帰一年目のまだ心が、不安定な時期の経験と変化であり、復帰したての頃の心の戸惑いに注目して書いたからで、現在の著者は、バランスを保ってコミュニケーションが取れている(はずである、と思いたい)。

 このセンサーの感度が上がったことで、さらに起きた変化としては、他者の痛みを、より深く察知できるようになることである。
 同じような悩みや弊害を抱えている人への想像力を手に入れた、ともいえる。

 人よりも、傷ついた経験がある分、傷ついた他人を蔑ろに出来ない、したくない、という心へと変化したのだ。

 しかし、その気持ちに容易く飲み込まれてもならない。
 なぜなら、同じ苦しみを感じていたのなら、また同じ苦しみによって、自身の鬱を再び呼び起こすことにもなりかねないからだ。他人の鬱が、自分の鬱に引っ張られて、呼応し、再び呼び覚まされたら、元も子もない。

 鬱を経験した者は、自身の負の部分を見つめ、ドップリと浸かり、対峙してきたその経験から、自分と他者を守るためにも、自分の弱さを充分に知っておかなければならない。

 そして、自分の弱さを知っているからこそ、自分ができる範囲内での善意を産み出すことができるのである。

 鬱になると知れることは、自分の中にある本当の弱さであり、本当の弱さを知っているからこそ、本当の善意や、優しさに気づけるのではないだろうかと、僕は考える。

 そういった視点に立てば、鬱という状況を経験したことで、自分という人間を深く知ることが出来るようになったし、己を知るという点においては、鬱は良い経験だったともいえるはずだ(それにしては、本当にキツいことばかりだったが……)。

 何はともあれ、いま鬱で苦しんでいる方へも、鬱を経験し、いまもその鬱と付き合いながら生きている人間が、こんな風に情報を発信する程度には、この世界で生きていけているということを、知ってもらえれば、幸いである。

2024.06.26

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