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読書記録①こちらあみ子

自己認識を欠いた歪んだ世界をイノセントに書き切った。

なぜ、こんなものが書けてしまうんだろう。

あたりまえだけど、きもちを文章にするのは難しい。
自分のきもちだってそうで、まぜこぜの感情をひもといて言葉にして、一条の文章にしていくのは至難の業なのだ!忘れてはいけない。

すぐれた小説家というのは、その言葉化、文字化、文章化への移行が操れるひとなんだと思う。ひとつの要素として。

だとしても限界はあって、自分の見えている世界か、自分に似た(想像の範囲内の)他人がせいぜいのはずだ。それだって神の領域に近い。

それを、今村夏子は、まったくの別世界を自意識とする登場人物でやりのけた。
しかもよりによって1人称視点で!
どういうこと。

教室のはじっこか、うしろか、ろう下にいる、幼少期の我々が見て見ぬふりをしてきたひと。の、1人称。どうやって書くんだよ。

かと思えば、同じく収録されている「ピクニック」は、そんな「ひと」をまさしくピクニック感覚で見てたのしむ1人称視点で書かれている。

ああ、ふたつの短編のおそろしさは、徹底的なまでの1人称視点にある。
自身の視点がゆがんでいることにさえ気づかない。自身が自身を正当化し言い訳していることにさえ気づかない。
そのかわりに、それらを世界のゆがみに結論づける(という営みさえ無意識におこなう。そしてその営みにまた "気づかない")。

「それはひとつの正しい世界なんだ。歪んでいるのは我々のほうかもしれない」

なんてキレイなコペルニクス的転回を模倣するのは勝手だが、そんな綺麗事でどうにかならないほど歪んでいる。歪んでいると真正面から言うことがむしろ誠実だとおもう。だから僕はそうする。

だって、そんな綺麗事に終わらせるのは無責任だよ。

ぼくも尊敬している詩人が解説を書いているが、さすがにどうかと思った。

たしかに生きづらさを昇華するきらめきが詩の一側面ではある。だからといって「本人にとっては誰よりもまっすぐな世界」を真正面から讃美したって、なんというか、24時間テレビ的な優越感に浸っているだけじゃないか?

それは、対岸からのあこがれのようなものだ。まっすぐな視点をもっているから歪んでいる世界を歪んでいると捉えてしまう我々から、歪んでいる視点で歪んでいる世界を捉えてしまう「ひと」への。

でもその煌びやかな対岸の火事はいうまでもなく災害である。

1人称で綴られた無垢な歪んだ世界を1人称で追体験し、めまいを覚えるべきだ。
吐きそうに読み終われ。

読み終わってから、けっきょく俺らだって歪んでいることに気づけばいい。

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