【短編小説】平成分裂
「新元号は縺オ縺です」
日本全国から集まる視線の中心で、官房長官が宣言する。
伏せてあった額縁を立てて起こすと、筆文字で「縺オ縺」と大書されていた。
2019年4月1日、平成の次の元号が発表された。天皇陛下の生前退位に伴って準備されていた新元号。数ヶ月前から世間はその話題で持ちきりで、さながら大喜利状態になっていた。
こんなことで馬鹿騒ぎしていったいなんの意味があるのか、という醒めたことを言う有識者もいたが、大半の者はこの「祭り」状態を楽しんでいた。暇な大学生の僕もその一人で、無責任に改元ニュースを楽しんでいる。
平日の昼間から特に予定がなかった僕は、テレビのニュースを見ながら「5ちゃんねる」の実況スレッドを開いていた。ここ数年は過疎化が進んでいるという5ちゃんねるも、こういうときは人が集まってくるらしく、発表を今か今かと待つスレッドの流速は凄まじい。そして今まさに、新元号が発表されたのだった。
「縺オ縺かぁ……」
口に出して言ってみる。当たり前だが面白くもなんともない二文字だ。なんだか古くさい響きで、これが平成の次の元号になると思うと変な感じである。どうせすぐ慣れるんだろうけど。
さて、スレの様子はどうだろう。テレビからPCに目を移すと、案の定というべきか予想以上というべきか、ものすごい盛り上がりだった。
「来た?」
「来た」
「来た!」
「うおおおおお」
「今日のニュースはこれ一色やろなぁ」
「お前ら他にやることないの?平日だぞ」
「お前もな」
「元気モリモリご飯パワー元年じゃないのかよ失望しました日本国民やめます」
しかし、スレを眺めていると、ほどなくして違和感に気がついた。
「新元号ス繧かよ」
「正直�鐔は予想してた」
「縺オ縺ってダサすぎだろ」
「ス繧?�鐔じゃなくて?」
「釣りか?スベってんぞ」
「いやマジでス繧なんだが…」
「は?」
スレッドの住人たちも奇妙な事態に気づき始める。
「発表された元号が違う……?」
僕がテレビで目にした元号は「縺オ縺」だった。今もニュース映像では繰り返しそれが映り、読みも連呼されている。
にもかかわらず、このスレッド上では複数の全く違う元号が書き込まれている。
「�鐔だったけど?」
「いや縺オ縺だろ」
「何これこわいス繧の人ほかにいない?」
「俺もス繧だわ」
皆で口裏を合わせて誰かを担ぐ「釣り」が疑われたが、それにしてはあまりにも規模が大きかった。新元号発表から数分で、スレ内はこの異常現象の話題で持ちきりとなる。
「マジで釣りじゃないのか? とりあえずテレビ今こんな感じなんだが」
誰かがテレビモニターの写真をアップした。チャンネルは僕がいま見ているのと同じだ。しかし、確かに映されている元号は僕が知った元号と全く違っている。「ス繧」などという文字は、こちらのテレビには全く見当たらない。
スレ住人たちが次々と写真やキャプチャ画像をアップしていく。信じられないことだが、スレ住人のそれぞれが全く違う元号を見ていることが明らかになった。釣りだとしたら、かかる労力が膨大すぎるし、なによりそんなことをする意味がわからない。
誰かが、スレ内で挙がった元号を数え上げてまとめた。そのレスによると、このスレ内では(明らかにふざけて便乗した物を除くと)三種類の元号を「見た」という証言が挙がっていることがわかった。
「縺オ縺」
「�鐔」
「ス繧」
僕が知っている新元号は「縺オ縺」だが、他に二つの新元号が「発表された」らしい。
さらに妙なことに、ほかのサイトでは全くそのような異常は見いだされなかった。ツイッター上では「縺オ縺」だけが新元号ということになっているし、ネットニュースなどにもそのような混乱はない。もちろんテレビもだ。5ちゃんねるのスレッド上でだけ、このおかしな事態が起こっている。
どういうことだ?
この異変はまたたく間にネット上で拡散し、新元号そのものの話題を遙かに凌ぐ勢いで共有されていった。そして、誰が言うでもなくとある仮説がささやかれる。
平行世界。
何らかの理由で、新元号発表の瞬間に世界が「縺オ縺」「�鐔」「ス繧」三つの世界に分岐したのではないか、という説だ。漏洩を防ぐため、新元号は直前まで決定されないことになっている。その最終候補は三種類まで絞られるという。それゆえ、官房長が持っている額縁に書かれた文字は、カメラに向けられる直前まで量子的な重ね合わせ状態にあった。
そしてなぜか、この5ちゃんねるの掲示板上でだけ、複数の世界が交錯している。
そんな馬鹿な。
いつもなら誰もが一笑に付しているような馬鹿馬鹿しい説だが、現に起こっているのだからこんな荒唐無稽な仮説もそれなりの説得力を持ってしまう。実際、三種類の世界が存在しているという証拠も挙がってきた。別世界の同一人物がレスをしたようなのだ。
ある人物がテレビのニュース映像を撮影した画像をスレッド上にアップした。その画像では、新元号は「ス繧」だった。その直後に別人がアップしたニュース映像では、新元号が「縺オ縺」だったのだが、撮影されたテレビの機種が同じであるばかりか、端に映り込んでいる飼い猫がそっくり同じだったのである。模様の濃い三毛猫で、鼻のところが不格好に真っ黒だ。そうそう同じ模様の猫がいるとは思えない。
「お前は俺か」
「俺だった」
なんとも間抜けなやりとりだが、これが真実であるらしい。
スレッドの流速は分速1000を優に超え、新スレを立てても立てても追いつかない。そして新元号が発表されてからわずか12分で(上記のやりとりは全てこの12分間で起こったものだ)5ちゃんねるのサーバー全体がダウンする事態となった。よく考えると、もしもこの平行世界の交錯が事実であれば、それだけでアクセス数が3倍に増えたわけだ。12分持ちこたえただけですごいといえるかもしれない。
もちろんサーバーが落ちても騒ぎそのものが収まるわけではない。そのスレッドを見ていた限られた人間の証言はまたたく間にネット中を駆け巡り、一大ニュースとなった。僕は偶然当事者となってしまったことにより、その狂騒を中心で味わうことになり、今までに感じたことのない興奮を全身で味わっていた。
「平成最後にやばい奇跡起きたwww」
「これ、科学史がひっくり返るレベルの大事件じゃね?」
5ちゃんねるの住人たちは別のSNS等に避難し、興奮をあらわにしながらこの事件を語り合った。もちろん僕もその一人だ。
約半日が経過したころ、ようやくサーバーが復旧した。
ところが、新元号発表の実況スレッドの様子がおかしい。僕が見たはずのレスの大半が見当たらない。すぐにその理由がわかった。「縺オ縺」世界のレスだけが残り、あのときに交錯したはずの「�鐔」「ス繧」世界のレスが消滅している。
ふたたび、ネットは騒然となった。
「やっぱり、複数の平行世界が混じり合う事象はあってはならないことだったんじゃないだろうか。何か歴史の修正力みたいなものが、その交錯の痕跡を消してしまったのではないか」
掲示板ではそんな説が述べられるようになった。真相はわからない。ともかく僕はあの昼に三つの新元号が同居しているスレッドを見ていた。それだけは確か……そのはずなのだが。
やがて、その当時の流れを知らなかった人々による懐疑派の声が大きくなってきた。大勢で共謀して架空の事件をでっち上げるイタズラが疑われたのだ。スクリーンショット画像などでいくつかの「平行世界の証拠」は残っていたが、画像合成だと思えばそうも見える。常識的なのはそっちの解釈だろう。
超常現象か、イタズラか、集団ヒステリーか……。
さまざまな可能性が挙げられ、ネット各所を賑わせる。
ネット民がいくら議論したところで仮説の域は出ず、結論は出なかった。
約一ヶ月が経つと、この「平成分裂事件」は単なるネットミームとして消費されるようになった。そして改元のときが来て、僕は「縺オ縺元年」の世界を生きることになった。
戦争が始まった。
6月。突然のことだった。日本海沖で、自衛隊の船が中国の潜水艦を「攻撃」したのがきっかけだった。その攻撃で中国に死者が出た。日本はこれを中国の領海侵犯に対する正当な防衛行為だと主張したが、中国政府は受け入れなかった。国際関係は一気に悪化し、そこにアメリカが口を出してきて、いろいろと事態がこじれ、事実上の冷戦のようなことになってしまった。
かつての太平洋戦争のように東京の上空を戦闘機が飛び交うようなことはないが、日本人は徐々に貧しくなっていった。テロや暴動が起こっても大したニュースにならない。緊急事態を口実によくわからない法案が次々と通って、ネットへの書き込みも制限された。5ちゃんねるはもう見られない。
僕は大学をやめて、新潟の実家の近くで働き始めた。とてもモラトリアムを謳歌できる雰囲気ではなくなってしまったからだ。
後になって、自衛隊の潜水艦攻撃は誤射であり、人為的ミスに起因している可能性が濃厚になってきた。もちろん政府は認めないが、ようは「運悪く」こんなことになってしまったのだという。でも、もう過去には引き返せない。ネットで見られるサイトが極端に減ったことで、いまの世の中がどうなっているのかも、よくわからなくなった。
元号が「縺オ縺」になってから、一気に日本は窮地に追い込まれた。
運送用トラックを運転しながら、ふとあの新元号発表の日のことを思い出した。もはや白昼夢だったような気がするが、もしあれが本当に平行世界とつながっていたのだとしたら、残りの「�鐔」と「ス繧」の日本は、こんな悲惨なことにはなっていなかったかもしれない。
そういえば、現在の元号は天皇陛下の交代とともに改元されるが、戊辰戦争以前はそうではなかったらしい。珍しい亀が献上されたとか、そんな理由で変えていたという。なぜそんなふうに元号を変えていたかといえば、単位を新たにすることで過去の因習を振り切るという意味もあったようだ。田畑の不作が続けば、次はそうならないようにという祈りを込めて、豊作を願った元号をつける。
現在では形骸化してしまったが、本来の元号とは日本国が自らにかける呪いのようなものだったのだ。
「呪いか……」
ハンドルを握る手がこわばる。とても嫌な直感が働いた。もしもその呪いが、現在でも変わらずに受け継がれているとしたら?
これまでの日本は、千年以上にわたって「日本」というアイデンティティを保てていた。他国による侵略の危機は幾度となくあったにも関わらず、なぜそんなことが可能だったのか。
もしも、こういうことだったらどうだろう。
改元にあたって、新たな元号の候補を用意する。そして、複数の元号ごとそれぞれの世界を創り出す。そういう呪術こそが「元号」の本質なのだ。ゲームで言うならば、元号だけが異なるセーブデータを複製し、バックアップするようなものだ。もしもどれかの日本が厄災に見舞われ、国ごと滅びることになるとしても、分岐させたほかの日本国は無事かもしれない。そのようにして日本は定期的に未来を分岐させて、日本というアイデンティティを生き残らせてきたのだ。
もちろん、そこに生きる人々はそのどれかの世界しか知らない。ネット上で平行世界が交錯してしまったのは、情報通信が偶然その呪術と噛み合ってしまったのかもしれない。
僕が生きているのは、たまたま「生き残りルート」を選んできた日本だった。しかし、今回、は……。
「ハズレを引いた、か」
高速道路の向こうに、編隊を組んだ飛行機が飛んでいるのが見えた。
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