「叩かれても仕方がない」の巧妙さ

相手の気持ちになるとはなにか

「相手の気持ちになって考えよう」というのは、子どものしつけの常套句で、大人になるまでに何度も聞かされる。

たしかに他人の気持になって考えられることは、生活上とても重要なスキルだ。しかし、それは手放しに善と言えるような能力でもない。

まず「相手の気持ちになる」とき、実態としては「自分が相手の立場だったらきっとこう思うだろう」とシミュレートしているにすぎないという大前提がある。

これは自我を仮想の他人に移植しているようなもので、考えようによっては「他人の気持ちになる」の対極にある押し付け行為にも思えるが、テレパシーが存在しない以上、これをするほかに他人を思いやる方法はない。なので、これは良いとか悪いとかではなく、コミュニケーションのルールそのものである。それゆえ、この妥協策を「他人の気持ちになる」と表現してしまっても、齟齬がない限りはそれでいい。

イジメは相手の気持ちがわかるから楽しい

ただ、大半の人は生活の中でそういうことを考えたりはしないから(自分だってしない)、なんとなく「他人の気持ちになって考えられるのはよいことだなあ」と思っている。実際それはメリットを多く生む能力ではあるのだけど、基本的に思いやりとは自我の植え付けということを忘れている。

その結果、「他人の気持ちになれる(=よい)」↔「他人の気持ちになれない(=わるい)」という単純な二項対立を受け入れてしまう。

だけども、たとえばイジメのような行為は相手の気持ちがわかるからこそ面白いという側面がある。全く相手の気持ちがわからない人なら、いやがらせなどしても何も面白くないだろう(するとしても無自覚なものにならざるをえないだろう)。自分がされるときと同じような苦痛と屈辱を相手も"感じているに違いない"という確信が、イジメを甘美にする。他人の気持ちになれる能力とモラルの有無は別のものだ。

「叩かれても仕方がない」

では、モラルがあり、なおかつ他人の気持ちがわかる能力があればそれはいいことなのか。私はそうも言えないと思う。

なにかヘマをやらかして炎上し「死ね」等の罵詈雑言を浴びている人は、たびたびこう評される。

「叩かれても仕方がない」

この言葉のポイントは「叩"かれても"」という受動態になっているところだ。驚くべきことに、現に叩いている人ですら「叩いても仕方がない」とは言わず「叩かれても仕方がない」と言う。

叩き行為に夢中になる人でも、それを心から正義と信じている人は少数派だ。やはり多少バツの悪さは感じている。そこでどうやって自らの行為を正当化するのかというと、自分が「叩かれている人」の気持ちになるのである。

「俺はこいつを叩いて理不尽な苦痛を与えているが、こいつは悪いやつだからいいのだ」

という、擁護が困難な思考を、叩かれる側を中心に組み替えて

「こいつは叩かれているが、もし俺がこいつであったならば、悪いことをしたのだから理不尽な苦痛を甘んじて受け入れるだろう」

という形にし、さりげなく「暴力」を「内罰」にすり替えている。「叩かれても仕方がない」という物言いには、主体的な暴力をまるで天災か神罰のように錯覚させる巧妙さがあるのだ。

ここで行われているのは、まさに「相手の気持ちになる」ではないか。

このテクニックは「自責するだけのモラルがあり」「相手の気持ちがわかる」人でなければ使いこなせない。そういった能力があってなお、人は人を踏みにじることができる。むしろ、今の世間に飛び交う言葉の暴力の大半はこの巧妙な形で振るわれている。

「相手の気持ちになれるのはよい」という無邪気な発想をやめないと、この憑依芸は今後もずっと通用するんじゃないかなと思っている。

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