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学校に行くべきか。

学校にてんで行かなかった経歴を知っている人から、自分の子どもが学校に足が向かないのだけれど、と聞かれることが頻繁にあります。

前職では、自身が青春期に慕った恩師のもとで、いわば後輩というべき不登校生を主に対象とした学校外教育に携わっていました。恩師の教育思想や自分に与えた影響を遠景にみることができるようになった一方、現場から離れたこの10年の間の社会環境の変化の大きさに圧倒されて、不登校の相談にはとても答えづらくなりました。

そもそも不登校という現象そのものは別のなにかが顕在化しただけであり、その理由はきわめて広汎かつ個別的、切り口を変えれば社会的な要因に答えを求めることもでき、一概に答えにくいのです。不登校のさまざまな理由についてはこの記事では触れません。

まずは、学校に行かない子どものことを心配する親心を一旦横に置いて、そもそも「学校に行くべきなのか」と問うてみるとします。

学校に行くべき?

少なくとも「行くべき」という答えはありません。だって、行かないからといって、警察にしょっぴかれるわけではないのですから。しかし、行くべきではないとも言い切れない。本人がそこに居場所なり、自己を保つ連帯があるのなら、無理に引き離す必要などないわけです。ただひとつ、教師に期待してはいけない、という事実だけは荒涼とした公教育の現場に無残に転がっています。

また、「学校に行く」という概念そのものが、高校くらいから大きく変わったことについても考えなければなりません。通信制の選択肢はいまや幅広く、あくまでより高等な教育への切符と自身の専門性を磨く前向きな意味でのモラトリアムとして使うことができます。

10〜20年前は、いわゆる高認(旧大検)のオルタナティブとしての通信制、不登校による罪悪感や不安感を薄めることのできる帰属感を狙ったのが通信制高校でした。いわばネガティブな理由につけこんだ教育ビジネスといったところ。それが、新興通信制は、既存の通信制のカウンターカルチャーとして存在感を持ちはじめました。これによって、義務教育後の教育環境はかつてないほどに複雑化、多様化していて、単一の様相をとらえることが難しくなりました。

そう考えるならば、引きこもりの高年齢化の対極として、形骸化した義務教育である小中学校が「オルタナティブがない」という制度的な袋小路によって、これまで以上に不登校のメインイシューになるのではないでしょうか。

どんな教育を受けるかという権利のジレンマと拒否する権利

初等教育のジレンマは、教育を受ける当事者が教育を享受する権利を持ちながらも、当事者が自主的な選択をできるだけに成熟していないことにあります。(例えば、私立、公立といったような)数少ない選択肢から選ぶのは、保護者であり、その価値観や経済環境が大きく影響します。受けたい教育を選べないばかりか、そもそも選択肢が用意されていません。

都市部には学校外教育の現場はあるものの、小中学校9年間を通して、包括的な教育と環境を提供できる教育機関はほとんどないと言ってよいでしょう。無論、制度的な保障や支援が社会基盤としてないのですから仕方がありません。実現するにも保護者に多大な教育費用の捻出を求めることになるでしょう。個人的には、アメリカの留学時代にホームスクールで育った学生との交流から、ホームスクールは重要なオルタナティブであり、シングルペアレントでもホームスクールを選べるような社会基盤と制度整備が進めばよいなと常々思っています。

拒否する権利

話が逸れましたが、初等教育においてもっとも重要であり、かつ無視されていることは、子ども自身に受ける教育を積極的に選択することは難しい一方で、与えられたものを拒否する権利はあるということです。

子どもは生まれてくる家庭や環境を選ぶことはできません。選択の主体者となれるのは、拒否をすることによってです。ただ、それは当事者の未熟さゆえに、十分に理論的な説明や言語化ができないことがあるにせよ、「行かない」「拒む」というのはとても強い意志の表明であり、保護者がもっとも尊重するべき子どもの権利です。

そして、「拒む」ことは非常に心的疲労を招き、親が思う以上に当事者にとって深刻で重大なことです。実際には、拒むという意思表明はきわめて非言語的なことが多いでしょう。腹痛や倦怠感といった心身症的な症状をもって、身体全体をかけて親に訴えることも少なくありません。

そのとき、家庭を適切な庇護を受けられる場所と仮定するなら、教師も学校も「社会」であり、ときに家庭と対立する存在となり、だから教師に期待は禁物と言いたいのです。

もう一つの権利

さて、拒む権利について述べたところで、その前景としては言うまでもなく憲法で保障されているように、教育を受ける権利があります。そして、教育とは広義でありながらも、心身の発達をサポートすることのみならず、その重要な部分が基礎学力の習得であることは言うまでもありません。

レジリエンスの重要性がことさらに強調されるなか、もちろんその重要性は強く認めますが、社会においてレジリエンスを発揮するとき、基礎学力の有無は大きく機会獲得の可能性に影響するのではないでしょうか。学校教育において、基礎学力の習得以上に重要なことはないのではとしばしば考えます。

コアになる教育要素について話そうとすると、生前に小室直樹先生がよく数学と歴史が肝要であると仰っていたことが思い出されます。しかし、これは小室先生の頭脳をもってしてといったところで、歴史を読むには、そして解釈するには国語力が基礎にないとどうにもなりません。

小中学の算数/数学も、実は日本語の読解力が割とものを言う部分があり、初等教育以降は国語力の初期習得こそがとても大切なのでは、と思っています。

本を読むことがすべての学習の基礎であること

なにが言いたいのかというと、本を読んでいればなんとかなる、ということです。「本は読まねばどうにもならぬ」「本は読むべきだ」ではなくて、「本だけ読んでおけばなんとかなるよ」という話がしたかったのです。

とはいえ、読書なんてものは、パターナリズムがつけいる余地のない部分で、自主性によるものであり、だからこそ読書には自由があるわけですが、逆に言えば、眼前に広がる自由に気づくかどうかは当人次第。こればかりは、機会を提供することのみが親にできることなのかもしれません。

ただ、ひとつの経験的事実として、読解力はあらゆる学習やコミュニケーションの基礎力になるということに確信があります。

「無理して行かなくても大丈夫」の本当と欺瞞

そんなわけで、話を冒頭に戻すと、「学校に行かなくても大丈夫だろうか」という相談をいただくと、「学校なんか行かなくてもいい」という批判的な態度というよりか、「学校に行かなくても大丈夫、まあなんとかなる」というやや鷹揚で頼りない答えしかできないわけです。基礎学力における国語力の重要性を強調したところで、個々の特性に大きく依るので。

特殊な状況である今年だけではなく、近年では学期のはじまりにあわせて、「無理して学校に行く必要はない」といった寄り添いの記事なんかが散見されます。あれは本当です。否定する気はありません。

ただ、真実の陰にまた欺瞞もあります。「無理して行く必要はない」という切り口は、いわば自殺抑止の文脈にあることが多く、「無理して」の閾値がきわめて厳しい。学校に行くことと天秤にかけるものは、そんなに重たいものである必要はありません。そんなに大層なことではありません。

最初の問いに戻りましょう。

行かないことで本人が後悔するなら行ったほうがよい。ただ、学校なんてものは無理してまで行くほどのところではありません。行こうと努めたものの心身が拒んだなら、それに素直に従うでよし。個々によって歩む道は違えど、なんとかなるものです。

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