インポッシブル・バーガーの話。ワクワクする未来の終わり。
ところどころで耳にするインポッシブル・バーガー。食べたことのある人っていますか?
なんでもいわゆる「代用肉」を使ったハンバーガーのこと。雑誌の巻頭の鼎談で、社会学者の福永真弓さんが話題にされていて知りました。
肉汁といいなんといい、肉です。しかし成分は肉ではない。人間が肉らしさを感じるのはヘムという鉄とポルフィリンの錯体からだそうで、植物性タンパク質を分解するときにヘムを生み出すよう遺伝子操作した酵母で大豆を発酵させて作る。このようにかつて七〇年代に恐ろしいと、あるいは夢のようだと思われていた、デザインされた何かは、もう目の前にあり、動いていて、しかも自分の身体を構成している。そう考えると、純粋な思考実験は難しいかもしれません。(福永真弓, 「ボーダーから問いかける倫理学」, 『現代思想』2019年9月号, p.16)
「インポッシブル・バーガー」と検索してみると、有名な雑誌などで取り上げられているようで、たくさん記事がありました。『WIRED』は安全性に焦点をあてて、開発者とFDAとの攻防戦について述べているし、『和楽』ではアメリカでの食レポが。割と以前から取り上げられていて、アメリカでは市販化もされているとのこと。皆さん一様に、肉らしい!とのこと。
でも、気になるのは、その肉らしさのことではなくて、フェイクを食べるという行為が意味すること。
ベジタリアンやビーガンの人たちは、動物愛護、健康、宗教などを理由に肉食をしないわけですが、彼らはどんな風にインポッシブル・ミートを受け止めるのでしょう。
動物愛護の観点なら、動物を殺さずに肉が食べられるなら、それで良いではないか、という意見があるかも。
健康上の話となると、これはインポッシブル・ミートそのものの安全性の話になるので置いておきましょう。(そもそも菜食主義が健康的なのかという議論も置いておいて……。)
宗教上の理由。各宗教、程度の違いはあるにせよ、イスラム教やユダヤ教の豚肉は厳しくNG。インポッシブル・ミートの味は牛肉に似せているわけだけれど、どの肉の味に似ているかはイシューになりえるのかなあ。
合理主義や功利主義的には、ある種のユートピア的なものでしょう。しかし、動物を殺さないようにと言いながら、動物の肉の味にこだわった偽の「肉っぽいなにか」を一生懸命開発して「動物の肉らしい味」を味わうというのは、禁忌のハックなのではと思うのです。
家畜を殺す、動物を殺す、それを食べる、味わう体験に腹を満たす以上の快楽がある、これらは密接につながっていて、文化条件によっていずれかが禁忌になる場合がある。カニバリズムに置き換えてみれば、一層気味の悪いことになります。人間の肉の味に似せたフェイク・ミートが市販化されて、バースデーパーティのディナーに出たとして、私たちは気持ちよく食べられるのかしら?
体験性にまつわる類似の問題は多くの地点で起こっているのだけれど、いずれも疑似体験。リアルな殺人ゲームも、無人機爆撃の遠隔操作も、きっとポルノ産業が発展させるであろうバーチャルなセックスも、結局は間接的なリアリティ。でも、インポッシブル・ミートはリアリティそのもの。食べる行為を疑似体験しているわけではない。実際に「食べて」いる。
味の素のなかのポークエキスがイスラム圏で問題になったことがあったけれど、あれはリアルなポーク。それに、禁忌を犯す自覚的な体験は伴わなかったはず。
宗教や信条といったエートスの禁忌を技術でハックするとき、人の心は壊れるのか、壊れないのか、どうなのでしょう。きっと禁忌と向き合うとき、人類史は次々と新しい定義で塗り替えられていく。ハラリの『ホモ・デウス』はテクノロジー至上な切り口でもっての警鐘としての論なんだろうけれど、(メタ・)メタ倫理学がもっと重要になるんだろうな。
だって、真理は決して善ではない。倫理学の座標そのものを見直さないといけないのだから。そもそも科学が暴き出す真理が人類にとっての善であるかどうかは、いつだってきわめて怪しい。あるいは、人類にとっての善を真理とするなら、テクノロジーはときに真理ではない。SDGsが掲げる「Leave no one behind」、功利主義、義務論、宗教。テクノロジーの目的が人類の善なのか誰にも判断がつかないのなら、「Leave no one behind」なんて、ネオリベラリズムに化粧をするためのほとんど意味のないスローガン。メタ倫理学をさらにメタしないといけないのか、真理多元主義を受け入れていくのか、形而上学に課せられるものは重たい。しかも、いわば汚れ役。テクノロジーは社会に利便性や健康、寿命をもたらし、資本や統治とアウトカムの親和性が高い。それらの使い方を定義しようとし、さらにmassに理解されない営みは、軽視され蹂躙される可能性が高い。
個人的には周期的にプリミティブな価値の揺り返しがくるのではと思うけれど、結局、社会とテクノロジーと倫理のバランスにおいて、テクノロジーが他を圧倒的にleave behindしている時点で、もうすでにシンギュラリティと変わらない命題を抱えている気がする。
いつの間にか、未来はワクワクするものじゃなくて、気味が悪くて恐ろしいものになってしまったのかもしれない。
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