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冷たい男 第6話 プレゼント

 少女の通う大学は、街の中心地から少し離れた場所にある。彼女の住む町からだとバスに20分程揺られながら最寄りの駅に行き、さらに電車に30分程乗ってようやく大学のある駅に到着する。
 チーズ先輩のようにバイクの免許を取って通った方が楽なのではと思うこともあるが、バスに乗るのも電車に乗るのも苦ではないし、いざとなれば父親が送ってくれる。それに駅の中には町にはないようなお店もたくさん入ってるので正直楽しんでいるというのが本音だ。
 そして今も駅の中にある本屋でお目当ての本を探し、店の中を彷徨っていた。

 本の匂いは好きだ。

 紙とインクの中に紡がれた物語や言葉のエッセンスが混じり合い、鼻腔と心を刺激し、昂りと高鳴り、そして安らぎを与える。
 本の樹海とはよく言ったものだ。
 言の葉から溢れる作者の思いが手に取る前から心を突いてくるようだ。
 ビニール包装された大手の本屋ですらこうなのだから図書館に行ったらむせ返ってしまうのではないか、そんなことを想像しながら少女はお目当ての本を見つけ、手に取る。
 それは少女が子どもの頃からある有名なファッション雑誌だった。馴染みのあるロゴのタイトルに最近、良くテレビに出ている男性アイドルがポージングして写っている。そして付録に女性物のトートバッグが付いているのでかなり分厚い。
 正直、表紙のアイドルも付録にも興味はない。
 あるのはこの本に載っている情報だ。
 しかし、雑誌は表紙を傷つけないよう貼られたテーブで固く封印され、中身を見ることは出来ない。
 何とか見えないかとあらゆる角度に角度に向け、少しめくってみるが当然見えない。
 少女は、小さくため息を着いて諦め、レジに持って行って購入する。
 バイト代が残っていて良かったと胸を撫で下ろす。
 その途端にあれだけ頑丈だったビニールテープの封が水にふやけたように柔らかく剥がれる。
 少女は、本屋に併設したカフェに入り、ショートのカフェラテとチョコクロワッサンを購入して席に着く。
 駅の中にある本屋のカフェだから学友たちがたくさん利用しているのではないか、と思われがちだが近すぎるが故に実は利用する友人達は少ない。それに地元の親子連れや高齢者も多くいてまさに"木を隠すなら森の中"と言った状態で隠れて、特に見られたくないものをする時には丁度良い場所なのだと少女は把握していた。
 少女は、カフェラテを一口飲んでから早速買ったばかりのファッション雑誌を捲る。アイドルにも付録にも目をくれず、流行りのファッションや占いも飛ばし、ようやく目当てのページへと辿り着く。
 そのページを食い入るように凝視し、目が写真と文字の海を泳いでいく。
 そして一つの小さな項目で目の動きが止まる。
 少女は、歓喜に目を輝かせて思わず「これだー」と口にしそうになった時である。

「「奥様ー!」」

 心が溶けそうな甘く可愛らしい声に思わず少女は思わず顔を真っ赤にしてを歪ませ、両手でページの蓋をする。
 恐る恐る顔を上げると紺色の可愛らしい作りのこの辺りでも有名な私立女子高校の制服を着た2人の女子学生が大きな目を輝かせ、頬を赤らめてこちらを見ていた。
 ショートとロングと髪型こそ違えど同じ顔。
 しかも洋画のエルフがそのまま抜け出てきたような絶世の双子の美少女。
 そんな2人が憧れの人にであったような恍惚とした表情で浮かれ上がるように少女を見ている。
「奥様あぁ」
 ショートの子が口元に可愛らしく手を当てて上目遣いに少女を見る。
「こんなところで何をされてるんですかあ?」
「ひょっとして大学の帰りですかあ?お会いできるなんて思ってなかったので嬉しいです」
 ロングの子は、今にも昇天しそうに目をクラクラと揺らして小さな両手を頬に当てて喜びに身震いさせる。
 そんな絶世の美少女2人のあまりに異様な反応は当然、他のお客さん達の目を引き、少女はあまりの圧迫に身を縮こませ、胃が痛くなるのを感じた。
 それに気づいて双子が表情を青ざめ、少女を挟むように寄り添う。
「奥様?どうされたんですか?」
「ご気分が悪いんですか?お水を飲まれますか?」
「それとも人を呼びましょうか?医師を?医師を?」
「ちょっと待って。ひょっとしたら・・・ご懐妊の・・」
「ストーップ!」
 堪えきれず少女は、思わず声を荒げる。
 相手の動きと心を止めるには十分すぎるほどの声量と圧に双子だけでなく他のお客さん達も動きを止める。
 少女は、きっと双子を睨む。
「あ・・」
「えう・・・」
 双子は、思わずたじろぐ。
 少女は、店の中を見まわし、そしてにっこりと微笑む。
 冷たい男に触られたかのような冷気が双子の首筋を刺す。
「・・・お店に迷惑だから座りましょうか?」
 口調は、穏やか。
 しかし、どこまでも冷ややかな怒りが込められていた。
「「はい」」
 2人は、近くから椅子を借りてストンっと座る。
 そして思った。

 やはりこの人は“おにい様”の伴侶だ、と。

 少女は、カバンから財布を抜き、千円を取り出すと2人の前に置く。
「これで何か買ってきなさい」
「「えっ?」」
 2人の声がハモる。
 ここまで同調するのはやはり双子だからなのだろうか?
 それとも人とは違う何かだからなのだろうか?
「お店に来て何も頼まない訳にはいかないでしょ?それともこういうところの物は食べれないのかしら?」
「いえ」
「そんなことは」
 2人は、おずおずと答える。
「じゃあ買ってきなさい」
 2人は、お互いの顔を見合わせる。
 その顔には困ったように眉間に皺が寄る。
 横顔も皺も羨ましいくらいに美しい。
 2人は、少女の方に向き直り.「「ありがとうございます」」と言ってお金を受け取り、注文に向かう。
 少女は、疲れたように小さく息を吐く。
「私の周りって・・・なんでこう変わった人が多いんだろう?」
 ファッション雑誌がエアコンの風に小さく揺れる。
 2人は、それぞれ飲み物を買ってくると席に座り、お釣りを少女に返した。もっと良いものを買ってきてもいいのにショートは、リンゴジュース、ロングは、アップルティーを購入してきた。
 先程、叱ったからか?身体をモジモジさせながら上目遣いにこちらを見ている。
「・・・もう怒ってないよ」
 そう言うと2人の顔は花火のようにぱっと明るく輝く。
 そして風に揺れた蒲公英のように身体を揺らして喜びを表現する。

 小さい子と一緒だな・・・。

 少女は、胸中で呟き、少し緩くなったカフェラテを飲む。
 正直、この双子のことをそんなに知っているわけではない。と、いうよりも出会ったのもつい最近のことだ。
 冷たい男が親友と言い張るピンク髪の売れない芸人に巻き込まれた事件の首謀者と思われていたのがこの双子なのだ。
 しかもこの双子には誰にも言えないような秘密があることも聞いた。
 しかし、紐解いていくとこの双子もまたとある病気に罹っていた被害者でそれに気づいた冷たい男に助けられた・・・それ以来、冷たい男に憧れと尊敬を持って懐いてしまったのだ。
 そして恋人である自分にも同じ反応をするようになった・・・。

 思い返せば返すほど頭が痛くなる。

「それで奥様・・・」
 ショートがおずおずと口を開く。
「奥様はやめて」
 少女は、ピシッと言い放つ。
 ショートは、びくっと身体を震わせる。
「では何とお呼びすれば・・・」
 ロングが飼い主の顔色を伺う子犬のように身を縮こませてこちらを見る。
 そんな2人の様子が不覚にも可愛らしく見えてしまい、胸がキュンと絞まるが、それをおくびにも出さぬよう努めて冷静に対処する。
「・・・彼のことはなんて呼んでるんだっけ?」
「「おにい様です」」
 2人は、同時に声を出す。
 とても澄んだ歌うような声だ。
 少女の胸が再びきゅんっとするが、それを表情に出さずにうーんっと顎に手を当てて考える。
「じゃあ、おねえ様でいいわ」
 本当に自分が年上かは分からないけど取りあえず高校の制服を着ていて明らかに幼い態度をとっているのだから構わないだろう。
 案の定、2人は頬をそれこそ飲み物と同じ林檎のように赤くして表情を輝かせる。
「「ありがとうございます!おねえ様!」」
 そう言って2人は頭を可愛らしく下げると少女に買ってもらった飲み物に口を付ける。
 少女は、胸がキュンキュン鳴るのを抑えるようにチョコクロワッサンの端を齧った。
「ところでおねえ様は、何でここにいるんですか?」
 ショートは、何度もしたかった質問をようやく口に出すことが出来て嬉しそうだった。
「欲しい本があったから購入して読んでたの」
 そう言ってテーブルの端に置いた雑誌の表紙を指で叩く。
「ああっその雑誌知ってます!」
 ロングが身を乗り出して雑誌を見る。
「毎回、表紙に載ってるアイドル達が美味しそうで私も興味があったんです」
 ロングは、ウキウキと言う、
"美味しそう"と言う言葉が非常に気になったがここは触れないでおく事にした。
「・・・貴方たちは何でここに?」
 少女は、話題を変えようと2人に話しを振る。
「私は、同じクラスのお友達の誕生日プレゼントに本をあげようと思って」
 ショートは、可愛らしい笑みを浮かべて明るく言う。
「私は、数学の参考書を探しに」
 ロングは、恥ずかしそうにはにかみながら言う。
 どちらも何とも言えず可愛らしいが気になったのはそれではない。
「・・・貴方たちって学校行ってるの?」
 確か制服は、カモフラージュだ、とピンク頭の悪友が言ってたはず・・・しかし、その質問に双子は、同じ顔できょとんっとしながら首を傾げる。
「・・・見たまんまですけど・・・」
 何を咎められているのか分からないといった表情でショートが恐る恐る言う。
 確かに有名な女子高校の制服を着ている。
 少女達世代でも可愛らしいと大人気だったのでよく知っている。
「ひょっとして・・・不良かなんかに見えました?」
 ロングが慌てて自分の髪型や身だしなみを気にしだす。
 とんでもない!
 誰もが羨む美しい顔立ちで清楚さが滲み出ている。
 双子は、不安そうに、怯えた子犬のようにこちらを見る。
 次に少女に何か言われたら人魚姫の如く命を絶つのではないかと連想させるほどに目が震えてている。
 少女は、思わず頬を引き攣る。
「ご・・・ごめんなさい変な言い方して。大学とバイトしてると曜日感覚分からなくなって・・今日日曜日と勘違いしちゃった・・・」
 自分でも何言ってるか分からない言い訳をして乾いた笑いをする。
 そんなんで納得する訳ないだろう!っと思ったが双子安心したように表情を緩めて笑う。
「なんだ。そうだったんですね!」
「やっぱ大学生って忙しいんだ!私も見習わないと!」
 双子は、安堵から嬉しそうに身体を横に揺する。
 どうやらこれがこの双子の嬉しい時の癖らしい。

 可愛い!

 そしてなんていい子たち!

 ウザいっと思っていた双子の印象が少しずつ変わっていく。
 そして改めてこの双子が要注意人物たちであると理解した。
 こんな可愛らしい子たちに攻められたら流石の冷たい男でも・・・。
 少女は、頭によぎった嫌な考えを頭を振って吹き飛ばす。
 その仕草に双子は、首を横に傾げる。
「それでおねえ様もそのアイドルが好きなんですか?」
 ロングの発した言葉の意味が分からず思わず「えっ?」と返す。
「その雑誌です。友達は大抵、アイドル目当てで買ってるから」
「ああっ」
 少女は、テーブルの隅に置いた雑誌に目をやる。
 確かに高校生であることが本当ならアイドル目当てであることは頷ける。
「おばさんみたいな答え方だけどアイドルになんて興味ないわ。見たかったのはこれに載ってる特集ページよ」
「何の特集ですか?」
 ショートが好奇心に目を輝かせ聞いてくる。
 少女は、躊躇いつつも雑誌のページを開く。
 特集ページに風船のようなポップな字体でこう書かれていた。

"恋人が喜ぶプレゼントとは?ファッションのプロが選ぶ今年のトレンド!"

 双子は、お互いの顔を見合わせ、そしてにんまりと笑う。
 今度は少女の顔が林檎のように赤くなる。
「なるほどなるほど」
「これはもう奥様になるのも秒読みですね」
 年下?達のからかいを少女は、「うるさい」と左手を振って鎮めようとする。双子は、それ以上、何も言わないがニヤつきは止まらない。
「それで・・・」
「どれを選んだんですか?」
 双子に促され、少女は渋々ページの中から一つを指差す。
 それはチャコールグレーの薄手だがシックな手袋だ。
 冷たい男にとてもよく似合いそうな・・・。
「今、付けてる手袋が痛んできてたから・・・」
 少女が恥ずかしそうに身を縮める。
「ステキー!」
「おにい様にとても良くお似合いです」
 双子は、天真爛漫に目を輝かせる。
「それじゃあこれを買ってプレゼントするんですね!」
 ショートが心と声を弾ませて言う。
 しかし、少女は、首を横に振る。
 双子は、予想外の反応に目を丸めて唇を尖らせる。
 少女は、小さく笑みを浮かべて言う。
「作るのよ」

 香り屋を訪れると大惨事になっていた。

 いつも鏡のように磨かれた木目の床にガラスと液体が飛び散り、封の破けた石鹸が散乱し、花とも調味料スパイスとも言えない鼻の奥をナイフで突き刺したような強烈な吐き気を催すような匂い・・・臭いが充満していた。
 少女と双子は、思わず鼻を押さえる。
 香水や石鹸の置かれた陳列台は、朝の教育番組で定番の計算に計算し尽くされた仕掛けおもちゃのように傾斜を付けて傾き、並べられた品が爆弾のように今も床に投下されている。
 幻想の世界に訪れたように整頓された造花やドライフラワーは巨大な草食獣に食い荒らされたように荒れ散らばっている。
 そして極め付けは仰向けに寝そろべり、白目を剥いている小動物・・・子狸と切長の目の背の高い大和撫子を彷彿とさせる美人・・・チーズ先輩が漫画のように分かりやすく狼狽えていた。

 まさに混沌カオス・・・。

「先輩・・・」
 少女は、恐る恐る声を掛けると涙を浮かべたチーズ先輩はようやく少女に気付く。
 悲壮に覆われたチーズ先輩の表情が天から蜘蛛の糸が垂れてきたかのように明るくなる。
 チーズ先輩は、小さな声で言う。
「・・・助けてください」
 少女は、頭に手を乗せる。

 何で私の周りには変わった・・・いや変な人しかいないのだろう?

 少女は、小さく息を吐いた。

 少女は、バンダナで髪をまとめると全ての窓と言う窓、正面口を開放して充満した臭いを外に逃し、臭いで昏倒した子狸を店の外の芝生に寝かせ、オロオロするチーズ先輩も一緒に外に出す。
 傾いた陳列台を直し、割れてない香水の瓶や石鹸を綺麗に並べ、床に散らばったガラス片を塵取りで集め、何枚も重ねた新聞紙の上に捨てて包み込み、ガムテープで止める。そしてゴム手袋をし、重曹を溶かしたお湯で徹底的に床を拭いた。
 最後に荒れ果てた造花とドライフラワーを丁寧に丁寧に指先を使って整え、元通りとは言えないが真っ直ぐに整頓する。
 そのあまりの手際の見事さに手伝うと息巻いてた双子は何も手を出せないまま目を丸くして見守っていた。
「ふうっ」
 少女は、陳列台の上の品を取るための踏み台にお尻を乗せて小さく息を吐き、ゴム手袋を脱ぎ。バンダナを外した。
 換気して寒いはずなのに今は何とも心地よい。
 双子は、可愛らしい白い手で賞賛の拍手を送る。
「おねえ様すごい・・」
「神の所業・・・」
 双子の口から飛ぶ世辞に少女は頬を赤く染める。
「そんな大したことはないわよ。ただの掃除よ。掃除」
 そう言って照れ臭そうに鼻の横を指で掻く。
 その手の袖部分にゴミが付いていることにショートは気づく。
「おねえ様ゴミが」
 ショートは、手を伸ばしてゴミを取る。
「ありがとう」
 その時、少女の指から掌にかけてよく見なければ分からないような薄い火傷のような痕があることに気づいた。
 少女も見られていることに気づき、苦笑いを浮かべる。
「昔の傷よ。もうほとんど目立たないわ」
 そう言って両の手を見せる。
 確かに全ての指先から掌に掛けて爛れて引き攣るような皮膚の痕が見られるが言わないと余程のことがない限り気づかれることはないだろう。
「どうされたんですか?」
 ロングが形の良い眉毛を顰めて訊いてくる。
「子供の頃にちょっとね・・・」
 少女は、それ以上何も言わなかった。
 ただ、少し泣きそうに目を細めたことが双子の印象に残った。
 「本当にありがとうございます」
 チーズ先輩が身を縮こませて店の中に入ってくる。
 その手にはようやく目の焦点のあった子狸が抱かれていた。
「もう生きて青い空を見ることが出来ないのではないかと思いました」
 普通の学生生活を送っていたら決して聞くことのできない物騒な言葉に少女は表情を引き攣らせる。
「先輩・・・何があったんですか・・?」
 ほぼ違うと思うが万が一何かの事件に巻き込まれていたのなら大変だと思い尋ねる。
 案の定、返ってきたのは全く事件性のないものだった。
「掃除をしていただけです」
 その台詞に双子が口を丸く開ける。
「本当だよ」
 テーズ先輩の腕に抱かれた子狸が弱々しく答える。
「おばさんがいない間に驚かそうと掃除していただけなのに何故かこんなことに・・・」
 昨日の夜からチーズ先輩の母である香り屋の女主人は外での仕事の為に出掛けていた。その為、無理に店を開ける必要もなかったのだがチーズ先輩は教育実習を一通り終えて暇だったし、子狸も小学校が行事の振替休日だったので1人と1匹で店番を買って出たらしい。
 その時の女主人の表情は、一度も料理をしたことのない男性が張り切って蕎麦打ちをすると言い出した時のように不安と心配げな表情を浮かべていたのだがそんなことを少女と双子が知る由もない。
 幸いと言うか客はそれほど来なかった。
 近所の馴染客が石鹸や玄関に置く消臭液を買いにくる程度だったので1人と1匹でも十分にこなすことが出来た(その時は子狸は小学生に変化していた)。
 しかし、あまりにも暇すぎたのが災いした。
 手持ちぶたさになったチーズ先輩は、そんなに散らかってもいない店の中を掃除しようとほうきを持ってきて床を掃いていた時にお尻が陳列台に当たり、棚が崩れ、乗っていたものが崩れ落ちた。
 それだけなら瓶も割れず石鹸も封が破れることなかった。子狸も仕方ないなあと言うくらいの気持ちで拾おうとしていた。
 だが、常識が許容されるのもここまでだった。
 自分の起こしてしまった失敗ハプニングに取り乱したチーズ先輩は、何故か蜂起で瓶と石鹸を掃こうとして振り回し、瓶を粉々に割り、石鹸の封を無惨に破いた。
 その時点で数十種の香りが混ざりブレンドし、反応ケミストリーを起こして、破裂するような臭いを発した。
 そのあまりに強烈な臭いに鼻の良すぎる子狸は、硬直して変化が解け、そのまま床に仰向けに倒れ伏した。
 その様にさらに動揺したチーズ先輩がさらに箒を振り回して陳列台という陳列台を崩し、身体が回転した勢いで造花と陳列台の上に倒れ込んで壊滅的なまでのダメージを与えたのだ。
 もう駄目だ・・・とチーズ先輩が天を仰いだ瞬間、少女と双子が入ってきたのだ。

 その時の光景はまさに天使が舞い降りたようだったとチーズ先輩は語った。

 話しを聞き終えた少女は、再び、いや三度頭を抱えた。
 双子は、呆れを通り越して口を開けたまま何も言えなくなっていた。

 容姿端麗。

 スポーツ万能。

 成績優秀。

 誰もが羨む全ての素質を持ち、男子のみならず女子から教員まで誰もが羨み、敬う完璧少女であったチーズ先輩。
 そんなチーズ先輩に対して誰が想像しよう。
 それ以外の面がまるでダメだなんて。

 チーズ先輩は、子狸を抱いたまま叱られた小さな女の子のように身を縮ませていた。
「とりあえず綺麗になったんでもう大丈夫と思いますよ」
 少女は、これ以上チーズ先輩を落ち込ませないと努めて明るく笑った。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 チーズ先輩と胸に抱かれた子狸は同時に頭を下げてお礼を言う。
「これで店を開けることができ・・」
「いや、今日はもう閉店した方がいいと思いますよ」
 チーズ先輩が言い終える前に強い口調ではっきりと言う。
 再びチーズ先輩は身を縮こませる。
「おねえ様・・・」
 ショートが少女の服を引っ張る。
「どうしたの?」
 少女が訊くとショートは、不安げに落ち込んでいるチーズ先輩を見る。
「あの・・・あの方って・・・?」
 ああっそういえば説明してなかったな。
「私の小、中、高の先輩よ。この店の経営者の娘さんなの」
 しかし、ショートが求めた説明はこれではなかった。
 ショートと、そしてロングも怯えた目でチーズ先輩を見る。
「この方って魔女ですよね?」
「それにその胸に抱いてるのは化け狸・・それも高位の」
 双子は、互いを守るように抱きしめ合いながらチーズ先輩を見る。
「そういう貴方たちは半妖ですね。いや、もっと薄いですね・・・」
 チーズ先輩が切長の目を細めて2人を見る。
「ひょっとしてハンターと後輩が解決したと言う事件の双子さんでしょうか?」
 ハンターと言う名前に双子は露骨に顔を顰める。
 嫌悪と侮蔑が滲み出ている。
 双子の感情の意味が読めずチーズ先輩は首を傾げる。
「私は魔女ではなく一介の大学生です。貴方たちをどうにかしようなんて思ってませんよ」
 その言葉に信じられないと言った表情を浮かべる双子。
 それに気づき、少女は安心させるように優しい笑みを浮かべる。
「本当よ。先輩もそのお母さんもとても優しい人たちだから」
 少女の言葉は信じられる。
 双子は、ようやく警戒を解く。
「ところで・・・店に何か用だったのでは?」
 チーズ先輩に振られて少女は、自分がこの店にやってきた理由を思い出す。
「手袋の材料を買いに来ました」
 その言葉だけでチーズ先輩は察する。
「今日はこっちだから付いてきて下さい」

 この店を、いやこの屋敷を建築した人、そして設計した人、そして注文した人はとても前衛的でお洒落な人だったのだろう。
 そうでなければトイレのドア1つをこんなにオシャレな造りにするはずはない。
 オーク材の板を鉄板の枠で多い、真鍮のドアノブは魚の尾の形をしており、優雅にその身を反っている。表面には美しきエルフに恋焦がれたドワーフが片膝をついて岩のように発達した太い指を差し出して告白している・・・という物語を連想させるような彫刻が彫られていた。
(そう見えるのは私だけなのかな?)
 後ろにいる双子にはどう見えているのだろう?
 ひょっとしたらエルフの姿をした魔王に屈服したドワーフに見えたりするのだろうか?それともロールシャッハテストのようにエルフでもドワーフでもなくもっと別の異質なものに見えているのか・・・?
「今回は、ここなんですか?」
 少女の前に立つチーズ先輩に尋ねる。
「ええっ」
 チーズ先輩は、頷く。
「この間はお風呂場じゃなかったでしたっけ?」
「3日前は私の部屋のドアでした。母も固定しようと頑張っているのですが何せ気まぐれなもんで難しいようです」
 双子も子狸も2人が何を言ってるのか分からず首を傾げる。
 チーズ先輩は、お尻のポケットをいじって小さな鍵を取り出す。柄の部分が蝶の羽の形をしており、羽の周りを紅玉ルビーが幾つも散りばめられている。
 チーズ先輩は、蝶の羽の部分を自分の唇に近づける。
「繋げ。紡げ。天と地と狭間の道を示せ」
 蝶の羽の周りに散りばめられた紅玉ルビーが燃えるように光る。
 チーズ先輩が鍵の先端をトイレのドアノブに近づける、と、鍵の先端がノブの中に吸い込まれる。
 双子と子狸の目が大きく見開かれる。
 チーズ先輩は、鍵をゆっくりと回す。

 ガチャンッ

 ドアノブがゆっくりと回り、扉が開く。
 温かな風と共に花のような甘い香りが漂ってくる。
 扉が開いた先、そこに見えるのはあまりにも広大な花畑だった。
「ふえっ?」
 双子のどちらかが空気の抜けるような声を上げる。
 チーズ先輩は、扉から鍵を抜き取るとお尻のポケットにしまい、迷うことなく花畑に足を踏み入れる。
 少女も迷うことなく足を踏み入れる。
 双子と子狸はお互いの顔を見合わせる。
 3人とも驚愕とも恐怖とも取れるふやけたような顔をしている。
 時間にして3秒ほど迷った挙句、3人は花畑へと足を踏み入れた?

 暖かい

 それが最初の感想だった。

 春先のような暖かな空気が剥き出しの肌に触れる。
 空は雲一つない青空で日差しが優しく皆を照らす。
 足元には現在の季節には決してあり得ない赤や黄、白、紫などの数多い種類の花が咲き乱れ、蝶が舞い、目を凝らすとバッタやてんとう虫の姿まで見える。
「ここは・・・?」
 子狸は、鼻の先にある花の匂いを嗅ぐ。
 とても甘い。
 扉が開いた時に流れてきた匂いはこの花畑の匂いだったのだ。
「春の部屋ですよ」
 チーズ先輩は、優しく微笑んで子狸の質問に答える。
 その顔は、子供たちに物事を教える教諭のようだ。
「先先代・・・つまり私のお婆様が春の妖精や精霊たちと一緒に作ったのだそうです」
 ビーズでアクセサリーを作ったの、とでも言うようにチーズ先輩は言う。
「作ったって・・・」
 ロングは、呆然と春の部屋を見回す。
 部屋と言う仕切りなんて感じさせないどこまでも広がる空と花畑・・・。
 思わず背筋が震える。
 どれだけの高度な魔法が使われていると言うのか・・。
「何のためにこんな物を?」
 驚きで舌を噛みそうになりながらショートはチーズ先輩に訊ねる。
「もちろんお仕事の為ですよ。こういう部屋でないと育たない商品が幾つもあるので・・・保管庫のようなものです」
 そう言いながら花々の中に手を入れ、切長の目を動かす。
 少女も同じように花の中に指を入れて掻き分ける。
「気をつけて下さいね。この時期は変な粉や液を振りまくヤツもいるので」
「大丈夫です。形は覚えてますから」
「貴方たちも蝶や他の虫に触れてはダメですよ。この部屋にいるのは普通とはちょっと違いますから」
 双子と子狸は神妙に頷く。
 2人は、夢中になって花の中を泳ぐ。
 双子と子狸は、そんな2人を見守った。
 いや、見守るしか出来なかった。
 水のせせらぎのようにゆっくりと流れていく。
「先輩いました!」
 少女が嬉しそうに声を上げる。
 チーズ先輩は、腰を上げて少女に近寄る。
「似てるけど違います。あっ触れないで下さいね。害はないけど危ないので」
 害はないけど危ないとはどういう意味なのだろう?と子狸は、ポリポリと鼻先を掻く。
 少女は、がっかりと肩を落とす。
「でも、この近くにはいそうですね。もう少し探しましょう」
 2人は、再び花の中に手を入れる。
 そしてら探すほど四半刻・・・。
「見つけました」
 チーズ先輩が右手を高らかに上げてにっこり微笑んで立ち上がる。
 ずっと同じ姿勢で固まったからか、立ち上がった時に思い切り腰を反る。
 少女も嬉しそうに立ち上がり、同じように腰を反った。
 チーズ先輩は、右手に握ったものを少女に見せる。
 双子と子狸も好奇心を持って覗き込み、悲鳴を上げる。
 チーズ先輩の手のひらにいたのは真珠色に淡く発光する芋虫であった。表面には幾何学模様のようや筋が雷のように走り、青く鈍く光っている。
「そ・・・」
 ショートの顔が青ざめ、小刻みに震える。
「それ・・は?」
 ロングに至っては目を合わせることも出来ず、唇がこれでもかと歪む。
 子狸だけが小さな声で「美味しそう」と呟いた。
 少女とチーズ先輩は、3人の反応に顔を見合わせ、首を傾げる。
かいこよ」
 少女は、さも当然のように言う。
「小学校の教科書で見たことあるでしょ?」
 チーズ先輩も少し困ったように言う。
 小学校の教諭を目指す者としては直接受け持ってる訳でなくても授業を聞いてくれてなかったというのは少し寂しいものがあるようだ。

「「いやいやいやいや!」」

 双子は、全力で手を振って否定する。
 どんなに勉強しても光る青筋の走った真珠色に輝く蚕なんて習わない!
 そう否定しても2人はまったくと肩を竦めるだけだった。
 双子は、何ともいえない敗北感に悔しそうに唇を噛む。
 チーズ先輩は、左手の人差し指で自分の唇に触れ、小さく短い言葉を唱える。
 そして唇から離すとその指先を蚕の口元に当て、ゆっくりと引いた。
 その瞬間、蚕の口から銀色に光る糸が伸びてくる。
 驚きの余り絶句する双子と子狸。
 チーズ先輩は、器用に指先を動かして糸を人差し指に巻き付けていく。
 そして気がつくとそれは綺麗な丸い糸玉へとなった。
「ありがとう」
 チーズ先輩は、糸を吐き終えた蚕を花の上に置く。
 蚕は、コソコソと鼻から茎へと身を捻りながら消えていく。
 人差し指から糸玉を抜くと少女に渡す。
 少女は、嬉しそうに受け取る。
「ありがとうございます。先輩」
「運がいいですね。かなり上質な糸です」
「あの・・・報酬は?」
「さっき十分過ぎるほど頂きました。まだ私が払いきれてないくらいです」
「それじゃあ残りで織り機を借りるのと染めるのって出来ますか?足りなかったら不足分は払います」
「十分だと思います」
 2人のやり取りの意味が分からず双子と子狸は首を傾げる。
「おねえ様・・・」
「それって・・・?」
 双子のおずおずと質問する。
 少女は、糸玉を愛しげに見て、そして顔を上げる。
「手袋の材料よ。これで生地を作って手袋を作るの」
 少女の言葉に双子は口を丸く開ける。
「彼の手は特別冷たいですからね。普通の生地じゃ防げないのです」
 テーズ先輩は言う。
「だから毎年、この子が彼の為に作ってるのですよ。健気でしょう?」
 チーズ先輩に言われて少女は、頬を赤く染めて口元を手で覆う。
「毎年ですか?」
「凄い・・」
 双子は、感嘆の声を上げる。
「市販の物じゃダメだし、手袋がなかったらとんでもないことになっちゃうから仕方ないのよ」
 少女は、苦笑を浮かべる。
 チーズ先輩も同じように苦笑を浮かべる。
「とんでもないこと?」
 子狸が訊く。
 少女とチーズ先輩が顔を見合わせて笑う。
「高校の時ね。彼とハンターが大喧嘩したことがあるの。その時に手袋が破れちゃってあいつの身体が半分以上凍っちゃったことがあるのよ。その時はお湯につけるわ、火で直接炙るわ大変だったな」
「小学校の時も大変でしたね。プールの授業で見学してる時に偶然、手がプールに触れてしまってアイススケート場になってしまいました」
「でも、それはそれでスケートが出来て得した気分でしたけどね」
 そう言って2人は笑うも双子も子狸もとても笑えなかった。
 チーズ先輩は、身を屈めて地面をノックする。
 地面が盛り上がり、小さな山が現れる。
 土がメッキのように剥げ、現れたのは古めかしい小さな木製の機織り機であった。
「糸玉を」
 チーズ先輩が差し出した手の上に糸玉を置く。
 チーズ先輩が糸玉を近づけると機織り機の木目が歪み、小さな手が幾つも伸びて糸玉を取る。
 無数の小さな手は糸玉を解し、伸ばし、切られ、まとめていく。
 そして丁寧丁寧織り機の綜絖そうこうの穴を通り、経糸たていととなっていく。
「あとは貴方次第です」
 そういうとチーズ先輩は銀色の糸が巻かれた小舟の形をした緯糸棒を少女に差し出す。
 緯糸よこいとを張る時に使うものだ。
「分かりました」
 少女は、力強く頷いて緯糸棒を受け取った。

 小舟の形をした緯糸棒が銀色の縦糸の海を泳ぎ、緯糸よこいとを潜らせた瞬間、清廉された鈴の音が抜ける。綜絖そうこうで弛んだ緯糸をタンタンッと打ち付けると星屑のような火花が飛び、花畑を優しく照らす。
 管弦合奏団のような洗練された少女の機織り捌きに双子は感嘆のため息を吐く。
「綺麗・・・」
「なんて美しい所作・・・」
 双子からの賛辞に少女は、頬を赤く染めるものの手を休めることはない。
「これを毎年やってるんですか?」
「愛の所業ですね」
 双子は、宝石のように麗しい目を輝かせ、神に祈るように両手を組んで少女を見る。
 その目は憧れを通り越して信仰のようだ。
 しかし、少女は、苦笑いを浮かべて首を横に振る。
「そんなんじゃないわよ。これはどっちかって言うと使命よ」
「使命?」
 ショートは、首を傾げる。
「そうよ」
 少女は、綜絖を叩きながら頷く。
「それはどう言う・・・」
 ロングは、質問するも最後まで言うことが出来なかった。
「貴方たち、手伝ってくれませんか?」
 チーズ先輩が声を掛ける。
 双子は、同時に首を傾げる。
 その仕草を可愛いと思ったのだろう、チーズ先輩の頬が赤く染まる。
「出来上がった生地を染める染料を作るのに幾種類かの花が必要なんです」
 チーズ先輩の後ろを見ると人間の子どもの姿に化けた子狸が丁寧に花を摘んでいる。
「彼女の労力の助けになるのでお願い出来ませんか?」

 少女の労力の手伝い・・・。

 その言葉に双子は風に揺れる蒲公英のように身体を揺する。
 喜んでいるのだ。
 双子は、チーズ先輩からの指示を受けて花を摘み始める。
 少女は、そんな双子の動きを見て微笑ましくなり、口元を緩める。
 妹ができると言うのはこんな感じなのだろうか?
 少女は、緯糸棒を通し、綜絖で叩く。
 機織り機の上に紫の蝶が数匹止まる。
 少女の住む世界では見ることの出来ない美しい蝶だ。
 甘い香りが漂う。
 飴玉のように濃密な甘い香りが。
 周りを取り囲む花の香りだろうか?
 少女は、心が温まるのを感じながら機織りを続けた。

 少女と彼は待ち合わせ場所で合流した。
 あまり来慣れない場所で自分でもどうやって来たのかあまり覚えていない。人通りはあるが誰もこちらに関心を示すことなく素通りしていく。
 少女と彼は味気ない質素なベンチに腰を下ろす。
「これを・・・」
 少女は、出来上がった手袋の入った紙袋を彼に渡す。
「ありがとう」
 彼は、笑みを浮かべてそれを受け取ると中身を確認せずにベンチの端に置いた。
「見ないの?」
「確認しなくったって最高の出来に違いないだろ?感謝してるよ」
 彼は、笑みを崩さずに言う。
 会心の出来なのに見てくれないことを少女は少し寂しく思った。

 せっかく拘って作ったのに・・・。

 心の中で言いかけて少女は、眉を顰める。
 拘ったのにと思いながらもどこをどう拘ったのかをうまく説明出来ない。
 流行りの雑誌を見て、流行の形を覚え、色まで決めたはずなのに・・・。
「毎年ありがとうね。本当に愛を感じるよ」
 彼の言葉に少女は、恥ずかしそうに下を向く。
 心のどこかに引っかかるものを感じながらも上手く表現出来ない。
 突然、強い力が彼女の身体を圧迫する。
 彼が少女の身体を抱きしめているのだ。

 ほんのり温かい。

 少女は、目が回りそうなほどドギマギし、両の手の指を開いてしまう。
「君の愛はいつも俺のことを温めてくれる。君がいるから俺は生きていける」
 少女の顎を彼の指先が持ち上げる。
「愛してるよ・・・」
 彼の唇が少女の唇に触れようとする。
 しかし・・・。
「貴方・・・」
 少女の目が冷たか彼を射抜く。
「誰?」
 彼の動きが止まる。
「誰って・・・俺だよ?」
 彼は、にっこりと微笑んで言う。
 異性を魅了するような艶のある笑みを。
 少女は、唇を噛み締め、彼を突き飛ばす。
 彼は、よろけながら3歩後退る。
「あいつが・・・そんな歯の浮くような安っぽい言葉を吐かないわよ」
 少女の目に怒りが灯る。
 一瞥で全てを燃やし尽くしそうな煉獄の怒りを。
「そしてあいつは決して自分からは相手に触らないわ。あいつの痛みを・・・苦しみを馬鹿にしないで!」
 少女は、叫ぶ。
 空間が渦を巻いて湾曲し、彼の姿が陽炎のように歪む。
 そして音を立てずに弾けて消えた。

「「おねえ様!」」

 目を覚ました少女の耳に双子の必死な声が飛び込む。
 少女は、織り機に向かって座ったままだった。
 その手と、肩と、胸と、頭に無数の紫色の蝶が止まっている。
 少女は、短い悲鳴を上げる。
光の精霊ウィルオブウィスプ!」
闇の精霊シェード!」
 ロングの手に光が、ショートの手に闇が生まれる。光は、波状のシャワーとなって放たれ、闇は漆黒の衣となって少女の身体を避けて紫の蝶を襲う。
 光に貫かれた蝶は青白い炎に包まれて焼け消え、闇に掴まれた蝶はそのまま飲まれ消え去った。
 仲間を消された蝶たちは驚いて少女の身体から離れる。
 突然のことに何が起きたか分からない少女。
「大丈夫ですか?おねえ様?」
「お怪我は?」
 心配そうに少女を覗き込む双子。
 その瞳は血のように赤く染まり、ナイフで切り裂かれたような縦長になっている。
 その恐ろしくも妖艶な姿に少女の心臓が冷たく高鳴る。
「・・・何が・・・起きたの?」
 少女は、恐る恐る訊く。
 その間に追い払い、消し去ったはずの紫の蝶が集まり出す。
 不愉快の羽音を立て、無機質な複眼でこちらを見る。
 数も数百を超えている。
 蝶たちは重なり、群がり、繋がり、パズルのように1つの型を形成し、赤と紫、そして地面を汚すような黒の混じり合った巨大な蝶の姿へとなる。
 ショートとロングは、少女を守るように前に立ち、身を低くして猫科の猛獣のように唸り声を上げる。
「私たちもよく分かりません・・・」
「花を摘み終えて、あの方が染料に変えてくると言って別れて戻ってきたらおねえ様があの蝶に襲われて呻き声を上げてたんです」
 双子は、再び精霊を召喚し、両手に集め、放つ。
 精霊の一撃で蝶の羽が破れる。
 しかし、破れた部分は直ぐに修復される。
 巨大な蝶ではなく群体の集まりであるが故に双子の攻撃で削ろうとも意味はなかった。
  しかし、相手の攻撃は違う。
  蝶の全身から粉が舞う。
  蝶を形成する1匹1匹の微少な羽から舞い上がる微少な鱗粉は混ざり合い、粉塵となって3人に降り注ぐ。
  鱗粉が重く全身にのし掛かり、鼻腔と舌を痺れさすような甘い香りが意識を奪おうとする。
 私の意識を奪ったのはこの匂いだと少女は悟る。
 少女よりも感覚が鋭いのであろう双子が膝を突き、頭をクラクラさせて意識が飛びかけている。
 そこに紫の蝶たちが群がっていく。

 あぶない・・・。

 少女は、双子に手を伸ばすも自分もまた意識が飛び掛ける。

 やば・・・い。

 少女の意識が闇へと沈む。

 ・・・

 ・・・

 ・・・

風の精霊シルフ

 風が巻き起こる。
 鱗粉を渦にして巻き上げ、飛び散らす。
 少女と双子の意識を覆っていた闇が晴れる。
 3人は、詰まっていた息を吐き出す。
 クリアになった少女の視界に色とりどりの花弁と瑞々しい緑の葉の肉身を持つ美しい裸体の乙女が宙に浮いてきた。
 彼女の周りから吹き荒れる風に蝶の群体がその型を保てずに崩れ落ちそうになる。
「やれやれ、ちょっと使ってなかった間に変な虫が棲みついてたみたいですね」
 少女と双子の後ろから声がする。
 振り返るとそこに焦茶色のとんがり帽子を被ったチーズ先輩が立っていた。
 その手にはチーズ先輩と同じ身長の蕾を付けた植物が握られていた。
花の妖精フィオーレファータ
 チーズ先輩の言葉を発すると花が首をもたげる蛇のように動かしながら茎を伸ばし、葉を生い茂らせ、花弁がゆっくりとゆっくりと開き、マリーゴールドに似た虹色の花を咲かせる。
「・・・食しなさい」
 その瞬間、花の中心、花柱の部分が2つに割れ、巨大な顎へと変貌する。
 花弁と葉の肉身を持つ乙女が蝶の群体に手を翳す。
 風が突風となって蝶の群体の身体を絞り込み、巻き込み上げ、花弁の顎へと吸い込まれていく。
 花弁の顎は、口に入ってきた蝶を喉を鳴らして飲み込んでいく。
 そして紫の蝶は、1匹も残さずに消え去り、美しい花畑と花弁と葉の肉身を持つ乙女、そして少女と双子、巨大な顎を持つ花を携え、とんがり帽子を被ったチーズ先輩だけが残っていた。
「やったね先生!」
 チーズ先輩の被ったとんがり帽子の皺の部分が大きく開く。その上には可愛らしい目が2つ付いていた。
 その顔は、子狸の愛らしい顔そのままだ。
「貴方がいてくれて良かったです。ありがとうございます」
 チーズ先輩は、礼を言う。
風の精霊シルフ花の精霊フィオーレファータもありがとうございました」
 チーズ先輩がお礼を言うと花弁と葉の肉身を持つ乙女はにっこりと微笑んでそのまま消え去り、巨大な顎を持つ花も小さなマリーゴールドへと姿を変え、そのまま動かなくなった。
「貴方たちも怪我はありませんか?」
 チーズ先輩の問いに少女は頷く。
 元の綺麗な目に戻った双子も頷く。
「先輩・・・助けてくれてありがとうございます」
 少女は、チーズ先輩に深々と頭を下げる。
「いえ、これは我が家の管理不足でしたので・・」
 チーズ先輩は、左手を前に出して謝辞を制する。
「貴方たちもありがとう。怪我はない?」
 少女に声を掛けられると双子は恥ずかしそうに顔を赤く染めてモジモジし出す。
「いえ、どこも・・・おねえ様が無事で良かったです」
「力不足で何の役にも立てなくてごめんなさい」
 少女は、思い切り頭を横に振る。
「そんなことないわよ。2人がいなかったら今頃食べられてたわ!本当にありがとう!」
 少女がにっこりと微笑んで礼を言う。
 双子は、お互いの顔を見合わせて、嬉しそうに身体を横に揺する。
 その様子を見てチーズ先輩も嬉しそうに微笑む。
「さあ残りの作業をしましょう。何があったら私が対処しますので安心してください」
「はいっ」
 少女は、頷くと横糸棒を走らせ、綜絖を叩いた。
 星屑のような火花が祝福するように煌めいた。

 冷たい男は、瞳と表情を輝かせて自分の両手に納まった真新しい手袋を見た。
 銀味がかったチャコールグレー、甲の部分に描かれた白い糸で描かれた竜の鱗のような波模様、跡も分からない程丁寧縫われた縫い目に吸い付くような細いシルエットはまるで最初から冷たい男の身体の一部として存在していたかのようだ。
「ありがとう!とても嬉しいよ!」
 冷たい男は、心からの喜びを表現した華やぐ笑みを浮かべて礼を言う。
 少女も花を綻ばせるように頬を赤らめて笑みを浮かべる。
「やっぱり本物だ」
 少女は、安心したように小さく呟く。
 冷たい男は、小さ首を傾げ、「何の話し?」と訊くが少女は笑みを浮かべて「何でもないよ」と答える。
「それじゃあ・・・はいっ」
 少女は、小さくて細い両手を冷たい男の前に出す。
「触ってみて・・・」
 そう言うと、途端に冷たい男の顔が曇りだす。
 暗い恐怖が目に浮かび、少女の掌を見る。
 そこにあるほとんど見えなくなった爛れた皮膚の痕を。
 少女は、唇を小さく、固く結ぶ。
「大丈夫だよ。もうあんな事は起きないから」
 少女は、笑みを浮かべて言う。
「でも・・・」
 それでも戸惑い、真新しい手袋で指を弄る。
 それを見て少女は、意を決して手を伸ばし、冷たい男の手を握った。
 驚く冷たい男。
 少女は、強く、優しい目で冷たい男を見る。
「ほら大丈夫・・・」
 少女は、冷たい男の手を握ったまま自分の頬に持っていく。
 そして手袋越しに自分の頬に触れさせる。
 少女は、微笑む。
「ほら大丈夫。私は大丈夫だよ」

「ごめんなさい!」
 幼い冷たい男は、涙をボロボロ溢しながら必死な謝る。
 その涙すら床に落ちて氷の玉になる。
 幼い冷たい男とその両親は町の病院の待合室にいた。
 目の前には幼い少女とその両親が向かい合うように立っていた。
「いやいや、気にしないでください」
 若い社長・・・少女の父親が困ったように顔を上げるように言う。
「悪いのはうちの子なんです。あんな危ないところで遊んで・・・君のお陰で助かったんだ。むしろ感謝したいくらいだよ」
 少女の父親の言葉に少女の母親も頷く。
「でも・・・手が」
 幼い冷たい男は幼い少女の手を見る。
 少女の両手には痛々しく包帯が巻かれていた。

 その日、幼い冷たい男と少女は公園で遊んでいた。ゴムボールを投げ合い、ブランコに乗り、土を盛り上げて作った滑り台の上で遊んだ。
 その時の冷たい男の手袋は薄手のどこにでも売っているような薄手の手袋だった。
 それで十分に冷気が防げていた。
 運動神経に自信のあった少女は滑り台の上で足を上げたり、飛び跳ねたりとテンション高く遊び、冷たい男は危ないから止めるように宥めていた。
 そしてそれは現実となる。
 足を滑らせた少女が滑り台から落ちそうになる。
 冷たい男は、慌てて両手を伸ばし、少女の手を掴む。
 そのお陰で少女は落ちることはなかった。

 しかし・・・。

 ああああああっ!

 少女は、泣き叫ぶ。
 お互いの握り合う手から白い煙が上がる。
 冷たい男は、慌てて手を離す。
 薄手の手袋に針のような霜が走る。
 少女の両手の指から掌が火で炙られたように真っ赤に爛れている。
 凍傷だ。
 冷たい男は近くの人に慌てて助けを呼び、救急車を呼んでもらった。

 幼い冷たい男は母親に持ってきてもらった手袋を何枚にも重ねて付けている。
 ごめんなさい、ごめんなさいと何度も少女に謝る。

 僕が普通の人間だったら、冷たくなかったらこんなことにならなかったのに・・・。

 幼い冷たい男は何度も何度も謝る。

 大人たちは悲しそうに、切なそうに冷たい男を見る。

「大丈夫だよ」
 幼い少女は、小さな声で言う。
「助けてくれてありがとう。私は大丈夫だよ」
 少女は、痛みを堪えて笑顔で言う。
「でも・・・」
 幼い冷たい男は、涙を止めることが出来ない。
「そんな悲しい顔しないで。悪いのは貴方じゃないんだから」
「でも・・・」
 幼い冷たい男は、自分を責めるように手袋に包まれた自分の手を強く握る。
 幼い少女は、そんな冷たい男の仕草を見て、にっこりと笑う。
「だったら私が作ってあげるね。貴方が何を触っても大丈夫な丈夫でお洒落な素敵な手袋を」
 幼い少女は、包帯に包まれた手をあげて小指を立てる。
 幼い冷たい男は、少女の行動に戸惑う。
 その小指に自分の小指を絡めることなんて出来るわけがない。
 しかし、幼い少女は構わずに幼い冷たい男と指を絡めたようにゆっくりと揺らして指切りをする。
「約束ね」
 幼い少女はにっこりと微笑んだ。

 少女は、自分の頬から冷たい男の手を離し、そのまま自分の小指と冷たい男の小指を絡める。
「約束・・・守ったよ」
 少女は、にっこりと微笑む。
 あの頃と変わらない、強く、優しく、可愛らしい笑みを。
 冷たい男は、唇を噛み締め、大きく頷く。
「ありがとう」
 冷たい男は、小さい声で礼を言う。
 これ以上声を大きくしたら感情が溢れてしまう。
 少女は、それが分かってるから、優しく微笑むだけで何も言わなかった。
「行こう」
「ああっ」
 2人は、小指を絡み合わせたままゆっくりと歩んでいった。

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