「ブルグマンシアの世界」のひとたち1~中村太亮、田中愛積~

前回、「終演のお礼とご挨拶」、「劇団ペトリコール社/斉藤ゆうの台本との邂逅」といったところを書きました。

その続きです。
思いつくまま、ではありますが、たぶん「メンバーへの思い入れ」と「係るメンバーに纏わる印象的なシーンやできごと」を書いていくんだろうと思っています。

前章だけで2日以上かかってて。充分だとは思ってませんけど、作品を総論的に語り出すとたぶん2023年が終わってしまうので、ここからは作家や演出家、共演者やスタッフのみんなのことに絡めて、各論的に言及することにします。あ、書く順番はいま僕が思いついた順です。文章量も「筆が乗ったかどうか」だけで大きく違ってくるかも。これらは「思い入れ」の多寡とはまったく関係ありません。
本来であれば当日だけ集まってくれたスタッフさんたちにも言及したいのですが、僕の観察力のなさ、距離を詰め切れなかったコミュニケーション能力ゆえ、語るだけの言葉を持ちません。割愛させてください。ごめんなさい。
ここからは敬称略です。

アルカ:中村太亮(演劇集団よろずや/エンタメ集団新ら夜)

年齢詐称。20年サバ読んでると信じて疑わない。絶対僕より年上だよ。だって20代中盤の人と「黄金の日日」「根津甚八」で盛り上がれるなんて思わないじゃない?
その「年齢感」相応に、稽古場でも劇場でも「目配り」ができる人。彼を見てると「実年齢」にはほぼ意味がないと感じさせられます。
本番2日目、舞台上ですごく嬉しいことがあって。ちょっと長くなるけど聴いてください。
久しぶりに「VRの内側」の世界にやってきたアルカをシロ(堀田ユカリ)たちが歓迎しようとしたのですが、アルカが拒絶します。我々のなかに榊(斎藤ゆう)と通じているものがいるかもしれないから。そんなアルカを咎めようと詰め寄るシロをダスト(僕)が制する。彼の選択を尊重しなきゃ。
そこへ榊が現れて、アルカと榊以外の時間が止まる。
この寸前、ダストたる僕はシロを制しながら微笑んでいました。
少しだけあざとく。
そのまま時間が止まりました。
止まったあと、アルカが「結局・・・!みんなして俺のことバカにして・・・!ヘラヘラしやがってくそぉおぉ・・!」と激昂します。
<微笑んだまま動きを止めた僕めがけて。>
彼と特段打ち合わせていた訳ではないのに、彼は僕が撒いた「笑っている(≒ヘラヘラ嗤っている)」という仕掛けをきっちり拾って利用してくれました。まさにぶっつけ本番にもかかわらず。
昼公演と夜公演の合間に、タバコ吸いながらそのことを尋ねてみました。彼は僕の企みをちゃんと認識して、瞬時に演技プラン(動線)を修正しながら僕に食ってかかってくれてました。
周囲や前後がちゃんと見えている役者でないとできない芸当です。
打ち合わせもなく仕掛けを投げた僕の行為は決して褒められるものではなく、また仮に彼がそれを無視したとしても何の問題もなく成立するシーンです。
でも彼は僕の遊びに付き合ってくれた。
繰り返しになりますが、アドリブと呼ばれるものの功罪は紙一重です。僕の仕掛けも「際どい」ところです。
それでも。
言葉/台詞以外のところで共演者と突発的/偶発的な会話が成立するというのはこれまであまり経験したことがなく。
その場で微笑んだままフリーズしているのをいいことに、内心その微笑みの倍くらいニヤついてました。あまりに気持ちよくて。


もっと書きたいことあるんですが、ひとまず「信頼できる役者(のみならず『演劇人』)」と結論づけて結びますね。
中村太亮。こんだけできる奴を僕の半分の「26歳」だとは絶対信じてやらねえぞ。

田中愛積(演出、オリゴ党)

何度かあちこちで書いてるんですが、彼女と僕の付き合いはおそらく15年以上だと思います。
記憶が正しければ、初めて現場でご一緒したのはオリゴ党「右手と左手は握手できない ~多羅尾伴内の世界・ハニー編~」。あ、2004年11月ですね。ということはもう18年・・・。ていうかさ、この「公演時期」というすごく基本的なデータが劇団公式ではなく

ここでやっと見つかるってどうなん?(笑)。で、あまりに懐かしいお名前がいっぱい出てきて執筆どころじゃなくなってますよ。どうすんだおい。

その時の田中愛積――改まって書いてみると「誰だ?」という気がしてきたので「みりっこ」と呼ばせていただきます――は。

実はね。この公演、あまりにクセの強いメンバーが集まりすぎていて、少々いい役者/面白い役者でもあっさり埋没してしまってました。みりっこは「おこもちゃん」という、口がきけない(あとから喋れることが判る)役として登場していたこともあって、余計に苦戦していたような印象があります。以下のツイートが(当時を憶えているものにとってはなおのこと)雄弁に彼女(の役)の境遇を物語ります。

からの

という、すごくいい役どころだったのです。その辺りはちゃんと自分のものにしていた、そこは既にさすがでした。
現在は「圧倒的にイカれたバスガイドさん」という、オリゴ党におけるお笑い主担の称号を恣にする彼女ですが、この頃はコメディエンヌとしての素養は見え隠れしていたものの、むしろ基本に忠実。「楽しい」「面白い」の、ストレートなあるいは強調された表出はそれほど感じられなかった記憶があります。
・・いつ、どのタイミングで「コメディエンヌ」の素質が爆発したのかが定かではないのですが、現在のみりっこから見える「笑い」は、本人がどう考えているかとはおよそ無関係に、みりっこ本人の「楽しい」「面白い」が「つい」漏れてしまった、そんな「うっかり」の素敵さを感じます。「私はこんなに楽しい。あなたはどう?あれ?面白いと思わない?」なんて何のてらいもなく語りかけられているような。
今回の「ブルグマンシアの世界」でも、彼女が仕切っている稽古場は常にこの「うっかり感」に溢れていましたし(それに「うっかり」乗っかってしまうメンバーも多数)、本番でも榊(斎藤ゆう)とのシーンは、これは作家もおそらくそうなるだろうと解っててそれっぽいやりとりを書いたんだろうと思ってるのですが、サジ加減をしくじると重要な台詞のやりとりが吹っ飛んでしまいかねないギリギリのラインで、「榊」なのか「斎藤ゆう」なのか、「サイ」なのか「田中愛積」なのか、にわかには判別できない二人が収拾のつかないやりとりを繰り広げる、袖で待機する役者が必死で笑いを堪えてるような「コント」に昇華されていました。まあ「うっかり」の功罪も紙一重で、あまりに楽しそうな二人に目がいきすぎて大事なやりとりが埋没しなかったか一抹の不安はありますが、それはともかく、もしこれがあざとく計算されたやりとりであったなら、少なくともそれが見えてしまうようであれば、袖で僕がこれほど腹抱えることもなかったでしょう。とても贅沢な時間です。稽古場との比較で、タイムにして3割増くらいは楽しんでたんじゃないかしら。ホント勘弁してくれ(笑)。

「うっかり」と書きましたが、これは演出をするときの彼女を象徴するキーワードでもあると感じています。辞書的には「注意が行き届かないさま」と解説される「うっかり」、ここには「意図せず笑いを起こしてしまう」という側面と、もう一つ「笑いの意図を悟らせず、気づけば笑っているように仕向ける」という側面、さらには「大事な話の重さを、意図を悟らせることなく強調するため直前に笑いを配置する」というワザも存在します。従って、この場合の「注意が行き届かない」のは観てる側だったりその場に巻き込まれる共演者だったりします。後述するサイとダストのシーンにしても、シロ(堀田ユカリ)やカリン(由紀)のシーンにしても、大事な話の手前には必ずと言っていいほどクスッとできるアクセントを置きにきます。
彼女はことあるごとに「ちゃんとしないと」と口にします。たいてい口にしたその口許が半ば笑ってるのでどこまで本気なのか量りかねるのですが、稽古中や舞台上での彼女は「ちゃんと」「うっかり」してる。
18年、産まれた子供が高校卒業しちゃうくらいの付き合いがあるはずなんですが、何となく感じていたこのことを明確に言語化できたのは今回が初めてのように思います。このことを教えてくれたという点でも「ブルグマンシアの世界」に感謝ですね。

「ちゃんと」「うっかり」の効用として前述した3つめ、「ワザ」に関して、田中愛積演じるサイと僕のシーンを書いておきたくなりました。

今回の「ブルグマンシアの世界」の基本として。
今このシーンを始め、ほとんど全てのシーンが「ハレンス」という名称のVRの世界で展開されます。
(全くの余談ですが、この「ハレンス」というVR(この場合は「ゲーム」と言った方がしっくりくるかな)のオープニング動画に"Hallenth"というタイトルロゴがありまして。動画全編そうなのですが、このロゴがあまりに素敵で何度も見返してます。前章にオープニングシーンの収録動画URLを貼っていますので、ぜひそちらをご覧頂きたく。)
サイ(田中愛積)は自ら「ここの管理人であって、神ではないから。」と言っています。ネットの世界の考え方としては「管理人」=「創った人」と言えなくもないですが、「神ではない」と敢えて明言しているいうことは、(ここでは少なくとも)「創った」ことを暗にぼやかしている、伝わらないようにしていると感じられます。
そしてサイとダスト(僕)のシーン。
ダスト「・・君は、僕みたいに現実で生きていけなくなった人間を救うために、ここを作ったんだろ。・・」
サイ「ああ、そうだよ。私もバーチャルに逃げた。そしてより質の良いバーチャルを作った。・・だから私は、現実逃避を責めたりはしない。けどね、」「・・どんな状況であれ、ユーザーのプライバシーは守らなければならない。・・」
ここからは僕の敢えての誤読です。僕なりにシーンを作品を成立させるためのバックボーンの創作です。
中村太亮の項で触れたとおり、アルカは現実と虚構の区別がつかなくなって自我を崩壊させます。
それと同じ現象だったのかどうか判りませんが、サイ自身も「バーチャルに逃げ」て、おそらくそこでもうまく立ち回れなかった。何度かそれを繰り返して、結果「より質の良いバーチャルを作った」。それもおそらく、何度か「作っては壊し」を繰り返しているのだろう。作るたびに、アルカのように「現実と虚構の区別がつかなくなった」ユーザあるいはアバターの存在に直面したのだろう。サイは何とかしてそのユーザを救おうとしたのだろう。救えなかったのだろう。ひょっとしたら救おうとして共倒れになったこともあるかもしれない。その経過があって、サイは「ハレンス」を作るに至った。経過から導き出された教訓が、「ユーザーのプライバシーは守らなければならない。」。台本として読んだ僕にとってはあまりに形式的で、無難で、無機質。何らかの組織であれ概念であれVRを含めたプラットフォームであれ、瓦解を目前に控えた形骸化を象徴するようなルールだと感じられた。
あらためて書き出してみて、これはあくまで僕の誤読に、創作に過ぎないんだが、少し涙が出そうなほど悲しくて救いのない顛末だ。
この台詞のやりとりをしているときのダストは、この、僕が捏造したいきさつを知らない。「ハレンスを作った」ことまでは知っているが、この悲しく救いのないいきさつは知らない。だからむしろ「ユーザーのプライバシーは守らなければならない。」という木で鼻を括った返しに落胆もし、むしろ怒りを覚えている。
このやりとりのあいだ、ダストはサイの目を睨み付けている。――睨んでいるのは「ダスト」じゃなく「僕」だったのかもしれない――怒りで睨み付けていた僕の目を、サイは、田中愛積は、どんな思いの「目」で睨み返していたのか。彼女の目の表情が見えたのは最後のほんの一瞬だったんだが、そこからは何も読み取れなかった。いや。読み取らせてくれなかった。「読み取るな」と拒絶された。辛うじて見えたのは「無」というより「虚」だった。言うまでもなく「読み取るな」は二人の目のあいだで交わされるれっきとした会話だ。コンタクトは見事に成立している。
「ユーザーのプライバシーは守らなければならない。」が現状考えうる最善の方法だったとして、それはベターであったとして果たしてベストなのか。境界を見失ったアルカ/天音に実刑判決を下したことは、サイにとって満足な結果なのか。「今そのことを考えても仕方がない。現状ではこれしか思いつかないんだから。」そんな声がサイの目から聞こえてくるような気さえする。
あるいは。サイ自身も苦悩しすぎて、彼女なりの現実逃避が「ハレンス」そのものだったのかもしれない。「満足」という視点を失ってしまった「虚」が、僕を見つめていた目の語るところだったのかもしれない。
――すげえなあ、田中愛積。
ほんの数十秒目を合わせただけで。
あくまで僕の誤読とはいえ、これだけの情報/情感を目に語らせることができるんだから。
書いてみてあらためて舌を巻いた。

話を戻すのも気が引けるのですが、この一連が効いてくるのは、だいぶ前に記した「うっかり」の効果も非常に大きいと思うのです。
実際、このシーンの冒頭も、呼び出したダストへの第一声が「なになに愛の告白~?」だったりします。これは作家が書いた台詞だ、とは言うものの、まあ楽しそうに登場してくるのですよ。さんざ思い詰めて躊躇ったすえに彼女を呼び出したダストとあまりに対照的に。そのあとも「だよね。・・・久しぶり。」という台詞、これは「・・・久しぶり。」と作家がわざわざ「・・・」を挿入した意図として「久しぶりに会って、何を話せばいいか戸惑って、『意味があるかどうかすら定かでないが、なにかを言わなければ』といういささかの焦りからやっとの思いで吐き出した」台詞だと思いこんでる(さほど的外れな思い込みだとは思ってないです)僕をあざ笑うかのように、両手を軽く握って両耳に当てて軽く腰をかがめる「萌え萌えキュン」的なポーズを取ってきたり。稽古場で初めてかまされたときは目眩がしました。膝から崩れ落ちそうになりました。僕の30年に及ぶ演劇人としての歴史は全て間違いだったと言われたみたいで。アキバ冥途戦争だってここまでぶっ飛んではないぞ。
ここまで徹底的に笑ってくれるから、笑わせてくれるから、後半が劇的に引き締まる。エラそうな言い方が許されるなら、ここ数年での田中愛積の良さが、この数分この1シーンに凝縮されている気がします。演技のコントラストは直感的に理解している、そのことは以前から感じていましたが、これだけ意図的に描き別けられるとは。
大変な役者さんを相手にしてしまってた、そのことに今更ながら少し肝を冷やしています。肝が冷えるというのはこれほどに心地よいものか、今更ながら幸せに浸っています。

チラリとだけ演出的なことに触れるなら。
同じこのシーン、前述の通りサイはチョケながら登場します。
ダストの言葉を見下すかのように笑い飛ばす台詞があります。
笑い飛ばす台詞に、ダストも敢えて乗っかって笑い返します。
――というやりとりにしていた時期がありました。
ある時に、「乗っかって笑うのはやめてくれ。むしろイラついていてくれ。その方が緊張感が出るから。」という演出リクエストがありました。
「チョケ」と「見下し笑い」、それが相手に伝わるかどうか、巻き込んで伝えるべきかどうか、さらにそれを場の緊張感と天秤にかける。微細なところですが、彼女は描き別けている。

ひええ・・・。
長くなりすぎた・・・。

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