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先週観たお芝居~劇団TheTimelessLetter特別公演 川田恵三プロデュース/記憶

2023.02.18 1200~ 大阪市立芸術創造館

もう1週間以上経ってしまうので今更ですが。

1日で2公演を観劇することを「ハシゴをかける」と呼びます。
しばらくぶりにこんなお芝居漬けの贅沢な休日を堪能しました。
1本はもちろんこの作品で、このあと布施に移動してもう1本。

お芝居の種類って多種多様で、単純に言っても「笑える」「泣ける」「考えさせられる」・・・。単純さ間抜けさ加減ではヤフーニュースの選択肢みたいですね。もちろん実際にはこんなに明確に分類できるほど単純ではないです。数え切れないくらいの種類があります。
全くの偶然なのですが、この日に観劇した2本は「泣ける」という共通点がありました。こんなこと滅多にないです。
その上で、この共通点でくくってもなお、とても大きな違いがありました。お芝居って豊かな表現媒体だなあ、なんて思ったりしてます。
その辺りを軸に、この作品を振り返ってみようかと思います。

まずこの作品(「記憶」)、舞台は「クリニック(と称される場所)」です。事故で大切な人を失った何人かが、同時に失った「記憶」を取り戻すため治療を受けています。

と、いうところまで書いて。

敢えて、結論的なところまですっ飛ばしてもいいかなと。

「事故で大事な人が亡くなる」というのは、「大切な人」を大切に思うための、「泣ける」ためのとても大きな出来事である、というのは疑いがありません。
でも、「人が亡くなる」から「泣ける」のではなく。
「亡くなったひとがどれだけ大事だったか」「どれだけ愛していたか」を感じられるから「泣ける」んだと、少々乱暴なんですがそちらをとっとと書いてしまった方が、僕にとっては素直に振り返れるかなと。
そんな風にまとめちゃいます。

舞台上には。
すごく理想的に愛し愛されてるひとたち、愛しているはずなのになかなかうまく愛情を伝えられないひとたち。
正直に言ってしまうと、少々、理想の部分だけを抽出した純粋培養で描かれすぎていたかな、類型的かな、と感じる部分はありました。
ただそれ故に、それぞれの愛情のかたちや大きさは、問答無用でこちらを直撃したようにも思えます。
出演者(斉藤ゆうさん)からの紹介で拝見したのですが、彼女からのアオリ文句が「大切な人に会いたくなる」。
看板に偽りなし、と思いました。
事実、会いたくなりましたし、特に後半では、目の前の舞台にいる役者さん全員の姿に、僕の大切な人がオーバーラップしていました。
やられたなあ。(あ、僕の大切な人は存命です(笑)。それと、「大切な」という意味では、友人・知人・血縁者も同様に対象となります。ただ、これは後ほど触れようと思うのですが、年齢的には、その殆ど誰もが僕と同様、決して「若い」といえません。だからむしろ「『今』会いたくなる」と思った、といった方が正確かもしれません。)

というところで、「泣ける」というキーワードを基に、考えてみようかと。
まずこの作品に絞って。
なぜ「泣ける」のか。
「大切な人がいなくなった」喪失感。「大切な人」の存在が大きければ大きいほど、喪失感は大きくなります。
実際には「いなくなった」のは実は自分(たち)で、「失った」のが相手方であったことが明らかになります。奇しくも「お互いが」「お互いにとって」大切な存在であったことが確認される、2倍の喪失感が描かれることになります。
加えて、この作品では、大切な人は「交通事故」という突発的な出来事で目の前からいなくなってしまいます。
喪失感に「突発的に」襲いかかられたひとたちの思いを、それも2倍の質量で突きつけられたら、こちらの涙腺はたまったもんじゃないですよ。
繰り返しますが、僕の大切な人は存命です。今のところは生命の危機にさらされている訳じゃありません。でも、いなくなることを想像したら。
で、その人じゃなくても、たとえば交通事故で、知ってる人が、友人が、いなくなったら、そんなことを想像したら。
泣くなっていわれても無理ですよ。
(なんだか取って付けたみたいですけど、舞台上に描かれるひとたちが、それぞれの大切な人をとっても大切にしてる、そのことがとても丁寧に描かれてるから、否が応でもこっちの想像力をかき立てられちゃうんですよね。)

で、ここからは「感想」とはちょっと違うかもしれません。僕がほんの僅か感じた違和感に関する一人語りです。「泣けた」「いい作品を観た」ということは既に充分に語ったつもりなので、読み飛ばしていただいても。

これは僕の勝手な推測ですし、誰しもに当てはまるとは到底言えないのですが、僕の感じた違和感は、年齢に由来するものなのかな、と。
別に隠すことでもないので。僕は現在(2023/02/25)50歳です。周囲の同年代と比較すると少ない方ですが、大切な人たちを何人か失っています。
大半は病気で。
交通事故は今のところ15年以上前にいなくなってしまった一人だけです。現在の僕にとって病気と交通事故どちらがリアリティあるかといえば、病気なんですよね。
大切な人を失う、その「原因として」、この作品では「交通事故」に焦点が当たっている。
――我ながらズレたところに違和感を覚えてるなあ、と思います。
病気と交通事故、「いなくなる」原因としてどちらが重要かという話では決してありません。
この作品を拝見して、事実として僕は「泣けた」訳ですし、それは「大切な人」の姿、もしその人を失ったら、逆に僕が失われてしまったら、という恐怖感を共有できた。だからこそ泣けた訳で。
じゃあその原因が僕に刺さるものだったかどうか、は、果たしてどの程度重要なものなのか。
あくまで僕個人の検証です。

書いてみたら整理されるかな、と思ったんですが・・・。
そう甘くはありませんでした(笑)。

この日拝見したもう1本。
空の驛舎/「雨の壜」という作品でした。
せっかくなので、この2本を並べてみます。
「大切な人」の存在を思い浮かべた、というところが一致します。
こちらの作品では、「亡くなった」ということは明示されません(僕は「既に亡くなっている」と読み解いたのですが、誤読だったかもしれません。)。少なくともそれは高齢の方です。僕と同世代の登場人物の「親」にあたる人です。おそらく呼吸器に、これもおそらく高齢ゆえの障害を抱えて入院されています。
描かれるのは「喪失感」そのものよりも、「失われた」あるいは「失われるであろう」その人への接し方、これまでどう接してきたか、その結果抱えきれなくなって、オーバーフローしてしまう自分自身を抑えきれなくなっていくのをどう捉えるのか、という、自分自身も同時に直面している残酷な時間の積み重ねであろうかと。

うん・・・。
「原因として」どちらに共感できるかというと、その1点だけに絞ると、現在50歳である僕にとっては「雨の壜」なんですよね。

で、じゃあ、「記憶」は、大切な人を思い浮かべるということに関して共感できなかったかというと、そんなことはなく。
繰り返しですが「大切な人」をちゃんと思い浮かべることができた。定量的な比較はできませんが、感覚的には同じくらい。
原因に共感できるかどうか、は、さほど重要ではないのだろうか。

「人がいなくなる」要因として、この2作品ではそれぞれ「交通事故」をはじめとする突発的なできごとと、「加齢」「病気」といったあらかじめ推測できるできごと、この2つが提示されています。
単純に「僕の」問題として、です。どちらの作品が優れている、ではなく。

迷走した挙げ句、たった今、雑な結論に至りました。雑とは言えやっぱり書いてみるもんだ。

僕の年齢が原因です。
それ自体は既述なのですが、ほんの少しだけ細分化できました。
年齢的に、頭が固くなってるのが原因です。
それと、お芝居に限らず芸術、あるいはもっと他のものもひっくるめて、「お客を選ぶ」ということもあると思います。
大切な人を何人か、多くを交通事故ではなく加齢や病気で失ってきた50歳の僕が、少なくとも傾向として僕より病気や加齢よりも交通事故の方が原因として説得力のある20代30代の方たちに、「交通事故」を契機として大切な人に思いを寄せているこの作品に、受け入れてもらえるはずがない。僕が、この作品を、受け入れられるはずがない。
僕は選ばれないし、選ばないし。
という思い込み。頭の固さです。
――もったいないことしちゃったなあ。申し訳ないなあ。
現に今こうやって書いてみて、その違和感は完全にではないにせよほぐれてきた訳ですし。
実際に僕も一人交通事故で失ってますし、その一人の喪失感が群を抜いて大きいのも事実ですし。
あれだけ泣かせてくれた、大切な人たちを思わせてくれた作品に、ひとたちに、申し訳ない。

批判めいたことを書いてしまいました。
ごめんなさい。
今頃になってしまいましたが、作品を堪能できていたという結果報告でお詫びとさせてください。
それと、ここまで考えさせてくれたことへのお礼も。

2023/02/28 14:25

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