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京都から北海道への旅②-今は旅のできないあの人へ-

2021年10月初旬

瑠璃光院へ

 京都は奥が深い。特に比叡山までへの道のりは、叡山電鉄のイメージが強いがバスの方が早かったりする。平日のお昼過ぎ。繁華街を抜けると座れるバスの揺れは心地よく、ついウトウトしてしまい、はっと起きてバス停を確認する。八瀬駅前から川沿いの道を歩く。
 秋のさしかかり口で紅葉はまだない。そのせいか、道端に「安全第一」と書かれたオレンジのバリケードフェンスや何やらが入った袋、落ち葉なんかが雑然と放に見せる顔はまだ作られていないと思われる。

瑠璃光院の門

 瑠璃光院。名前と、大きな塗り卓に反射した紅葉の息を呑む美しさ、の写真だけを知っていた。初めて訪れる場所。特別公開は春と秋だけ。
 去年の秋、コロナ禍で人が少ないと思いきや、予約はすべて埋まっていた。今年も、10月30日からは予約なしでは入れない。紅葉がないからこそ、こんなにゆったりと廻れる、とも思える。ちょっとした負け惜しみ。今年こそ、ここの紅葉を見たいなぁ、とは心底思う。

 正直、二千円の拝観料は、強気やなぁ、と思ってしまった。が、科目等履修生として在学している通信制大学の学生証のおかげで、学割がきき半額になった。学生身分とはやはりすごいものだ。そして、学ぶものに機会を与えるこういった制度は、本当に素晴らしいし、学生にもっと使ってほしいと本当に思う。

石橋

水と紅葉

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 山門をくくり石段を上る。息を飲み込む。
 紅葉はどこにもない。であるにもかかわらず、美しさが重層的に折り重なる。石橋にさしかかると、折り重なって茂るもみじの葉がいちまいいちまい、美しく小さな手のようにかたどられ、それが幾層にも空を覆っている。その樹々の葉を透かした向こうにわずかな音を立てて水が落ち、その流れを目で追うと、透き通る水の中に美しい鯉が悠々とたゆたう。
 京都の美とはこういうものか。自然と、視線がそこへと向かう。そしてどの角度にも、美しさが内包されている。

紅葉と屋根

 目線を上へと向けると、まだまだ紅葉とは程遠いもみじが空の光に透かされている。青々とした葉でもこれだけ美しいのだから、これがことごとく真っ赤に染まったら、と頭で想像してみる。空想のその庭には人が誰もいない。実際にはありえない光景。
 現実の景色では、現実の風景はおそらく、紅葉と同じくらい人が密集していると思う。おそらく今年も何千人もの人が来るのだろう。この静かな時間と空間を選んでよかったかな、と思う。

三条実美の額

 玄関に足を踏み入れると、大きな屏風と両手を広げたくらいの額が客を迎え入れるように設えられている。表に書かれていた案内を読んでいたので

「これが三条実美に書かれた額ですか。」

 と、受付で説明書きなどを配ってくれている方に尋ねると、怪訝そうな顔をされた。間違ったかな、と思ったその時、奥から出てきた別の女性が

「そうです。三条実美の真筆です。ごゆっくりごらんください。」

 と言ってくれたので安心した。
 お姉さん、こんな素晴らしい作の前で毎日仕事してるのに、何なのか知らないのはもったいなすぎるやろ、と思いつつ、自分が歳を取ったからの興味かなぁ、とも思った。

 幕末、一度は都を追われ、再び中央に返り咲き、黒田内閣の後ほんのわずかながら内閣総理大臣も担った三条実美。
 公家然とした線の細い人、と思っていたがその筆致はものすごく太く強く、力がみなぎっている感じだった。激動の時代を生き切った人。現代人には想像もつかないほど、しっかりと肚の据わった強い人やったんやろう、と素直に感じた。

手すり

 件の女性が配ってくれたものの中に写経が入っていた。煩悩だらけの自分が書いた願いは、満願成就。本当は「万」願成就、としたかったが。したいことだらけなので、なかなか成就するのは難しそうや。「佛説観無量寿経」と「浄土論」から引用された一節が漢字で書かれている。なぞるだけなのにうまくいかず、はみ出したりしている。煩悩ゆえ、かなぁ。
 書ききり、大きな窓に目をやる。借景。山が絵画のように青く広がる。こんなところで時間をずっと過ごせればどれだけしあわせか。でもこんな光景も毎日だと日常になってしまうんやろか。

漆塗りの卓と映り込み

 その風景は、写経の間を出てすぐに現れた。しかし一瞬、それがそうだとは気づかなかった。というのも、ただ大きな卓がそこに置いてある、という感じだったから。先客が、写真のほうがきれいやなぁ、と話してみる。とりあえず撮ってみる。なるほど、と納得できた。

 ここの写真はおそらく、小さな画面で見るほど美しく見える。写実ではない。写実を小さくし、やや遠くから眺める。それが最も美しく見える場所。しかしこの黒光りに真っ赤に照らされた満載のもみじが映り込んだら、それこそ息が止まるほど美しいのではないか。

 多くの人がここで写真を撮る。撮ることを目的として。自分もその一団に加わっていたが、ふと客観的に眺めようと少し距離を置いてみた。ただただ外の風景を眺める。そして鏡写しとなった、卓上の世界をまた眺める。その風景は、もちろんのことながら美しい。直接目に入る光の世界を観ることを忘れて、もう一つレンズを挟んだ目に見えるままでは無い世界を残すことに一生懸命になっていた。少し後ろに下がるのは、時として必要だと思った。

 カメラを離れると、風を感じられる。音を聴くことが出来る。風がさらさらともみじの葉をわずかに揺らしていることに気づく。とらわれると、一つのことに集中してしまうと大切な周りを忘れてしまう時がある。

 いい風情。ぼーっとしていると、一瞬人が途切れる。この部屋に自分一人。至福の時間が訪れる。いいなぁ、この時間。人の話し声が遠くから聞こえ始める。また新しい写真家たちが上がってくる。その前に、と思い、一階へと移動する。

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 読経の声が聞こえてきて、導かれるようにそこへと移動する。何人かの人が聞き入っている。違う文化圏の人はどう感じるんやろか、この音を聴いて。たぶん、自分たちがコーランの祈りを聴いて感じ入るように、やはり心地よい包まれる感じを抱くのだろうか。
 ところどころ意味が分かり、それ以外は単なる音であるこのお経を聴くたび、心地よいと思いながら何の意味があるのだろう、まやかしではないか、などと長い間疑念を抱いていた。しかし最近になってようやく受け入れられるようになった。気持ち良いと感じている自分がいる。それだけでよい。心地よい以上に、何を求める必要があるのか、なんて。

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 釜風呂の元祖、というものを見たが、本当はこういう展示にはあまりいい感覚は抱かない。使えないもの、というのを展示するのは博物館だけでいいと勝手なことを思ったりするからである。ただ、用の美、というのは好きである。
 古田織部が「わたり四分、景六分」を理想としたというが、これを作った人は果たして景をどれほど意識したのだろうか、と考える。漆喰の盛り上げでできた曲線はちょうど良い美しさである。それはただただ、要るからそこに重ねたのかもしれない。機能を追求すると結果として美しさが生じているのだとしたら、それは本当に驚くことだと思う。

庭

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 庭を眺める部屋に入ると自分一人であった。こんな時間をもう一度味わえるなんて本当に想像もしなかった。以前なら時期を外せば、京都でもこういう時間をすごせた。インバウンドの人たちが戻ってきたら、二度とこの静寂の時間には浸れない。少なくともテレビなどに関わることのない、一般人の私が体感することはほぼ無理だろう。 

 縁側で樹々を眺めつつ、どこの場所から見るのが一番美しいのかとふと思う。少し後ろに下がると、障子が視界に入ってくる。これはすごいな。障子の文化というのは。直線で切り取られた空間によって、本当に庭が絵画になってしまう。広がりのある空間を雄大に見せるのがバルコニーだとしたら、障子は本当に小さな自然あふれる人工空間を美しくおさめてくれる。
 この時間に浸っていたい。抹茶とお菓子を頼む。縁側で正座をしていたが、どうしてもくつろげなくて胡坐をかく。さりっとした歯ざわりのそのお菓子は、瑠璃光院のもの。中に入る小豆が、とってもほろほろとしていて甘さが本当に、こえていない。ちょうどおいしい。抹茶をすすり、ほぉ、と一息出てしまう。作法もへったくれもないが、おそらくこの庭園を造った人は、ひながここでこんな風にゆっくりと時間を過ごしたかったのかなぁ、などと考える。結局人はこういう時間の中にいるのが心地いいんやろうか。

 仏教の坊主が豪奢な建物や広大な領地を持っていることにいつも疑問を感じている。しかし、こうやって貴重な文化財としてのそれの中で心地よい時間を過ごしていると、仏教という、喜捨のような寄付の文化、そして陰に陽に発揮された政治的な力がそこに集約された、分厚い文化的背景ができたからこそこの美があるのだ、とも思う。

 左隣りにカップルが座る。仲がよさそうで非常にいいなぁ、と思う。庭をもう一度眺める。二人の声が、意味を持つ日本語から、樹々のせせらぎや庭の奥に落ちるわずかな水音、虫の音にとけこむように、その景色の一部となる。
 右隣りに女性が一人座る。自分と同じ歳くらいかなぁ、一人で平日に散策できるって、どんなことしてはるんやろう。少し考える。そしてまた、庭へと視線を移す。右ひじを右ひざを乗せ、顎をさすり。そんな自分の姿を客観的に思い浮かべる時間もまた、こんな時しかない気がする。
 やがて後に来たカップルが席を離れた。そろそろ行かないと、ここにはいくらでもいられてしまう。

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 廊下を曲がるとその角々に風景がある。写真なんて本当に意味をなさない、と思いながら、いつか想い出すために役に立つかも、と言い訳をしつつ同じような写真を何枚も撮る。撮らざるを得ない気持ちになる。京都の美、といえばものすごくチープになるけれど、各寺々でこれだけの密度を持つのはおそらく京都だけの気がする。

下の庭

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 お腹いっぱい風景を楽しんだはずなのに、階段を下るとまた庭があった。どれだけ奥深い構造になっているのだろう。おそらく自然の斜面をもっともいい形で利用しているのだろう。山がちな地形を、先祖たちは何とか美しく設えてきた。やはり観ることをやめられない。いつの間にか人がいない。閉門間近になっている。それは分かっているが離れがたい。座ってしまう。

 臥龍の庭、といったか。ちゃんと覚えていない。日本人は龍が好きで、龍は水の守り神。だからここにも実際にいてるのかもしれない。せせらぎを庭に作り出し、そこにあるのは自然の中の力強さでも、人間の偉大さでもなく、ただやさしく存在する柔らかさだけの気がする。ここちがよいなぁ。もしかしたら寺の坊主というのは一番欲が深いのかもしれない。それが、ただ作庭という方向に向かっただけで。芸術を、美を志向するのもこれまた欲だと思うので。
 その欲のおかげで、私はこうして至福の時間を過ごせている。自分には、感じることが出来ても、それを無から抽出する能力はない。だからこそ、その欲に感謝する。力強く美を産み出す力に。

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 窓の多い明るい茶室は利休よりも織部が好きそうな感じがした。いわゆる、知らんけど、の世界ながら。利休は怖そうなのでそうは思わないが、ひょうげ、を主とした織部とは話してみたい気がする。利休を離れ、光を取り入れることで茶室を完成した、と何かの本で読んだ。
 お点前のほんの入り口でやめてしまった自分にとっては、深淵なる茶道の世界の奥なんて全く想像もつかない。ただし、心地よさを真剣に考え追求した人たちが行き着いた先がこうやって形として残っている。そしてそこはやはり、立ち去りがたい空間として存在する。

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最後のせせらぎ

 気が付くともう2時間もいた。違う時空にいたのかと思ってしまうくらい。もしかしたら、そういう感覚に迷い込ませることが日本の庭や建築の真骨頂なのかもしれない。割引券をもらった隣の美術館はもう閉まってしまったやろう。もったいないことをした。

 もう誰もいない出口を出て、それでも足を止めてしまう。苔むした灯篭の頭を眺める。苔を見て美しい、と思うのは日本人だけなのだろうか。英国人の、転石苔むさず、のことわざは、苔むすことを嫌い常に新しいものをもとめるべきだ、という意味の格言だったと記憶している。ということは、苔むすまで置かれたこの石灯篭は、まさに置いてけぼりを食らった遅れた歴史の無駄な遺物となる。
 けどもその考えはやはり、日本人にはなじまない。苔を覗くとその中にまた、小さいながらも深淵なる森が存在することを知っていたのだろう。私はこの極小の小さな森の風景がとても気持ちよく感じる。フラクタルな世界。箱の中に、また小さな箱が存在するような世界。

 どこからかまた水の音がする。簡単には見つからない。耳を澄ましてようやく、その方向を聴き定める。わずかに落ちるその水は主張することなく、風景の一部と化している。最後の最後まで足をとどめる仕組みをよくもまあ作るものだと感心する。ここを作り出した住人は、恐ろしいまでに美に取りつかれた欲の人だったのだろう。美の鬼のような人。私の感性なんかが全くおよばない人。ただただすごいと思う。

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 入ってきた門にさしかかると、もう半分閉められていた。最後まで往生際の悪い客で申し訳ない、と思った。でも本当に堪能させてもらった。最初に、強気な料金設定やなぁ、と思いつつくくった門を出て、それだけのお金を取らないとここは維持していけない、と本当に思った。これを維持するために、いったいどれだけの職人さんが入っているのだろう。どれだけの時間を必要とするのだろう。
 美に触れるといろいろと考えてしまう。それが良いことなのか、悪いことなのかわからないが。少なくとも、昨今の効率ばかり重視され、儲けの出ない文化や人文科学に意味はない、と一都市の長である知事までもが喝破するような、思慮することが浅くなっている時代には、このような思考の時間は無意味なものかもしれないけれど。ま、入って出るときに費用対効果を考えてしまっている時点で、すでにどっぷりと効率主義にはまってしまっているのかもしれないが。

 なんて。
 普段考えない思考をできる空間。やはり私にはこの空間と時間が必要や。この狂気なまでに凝りに凝った美の極致が、進化しながらずっと続くといいなぁ、と思いながら、夕暮れつつある川べりの道を八瀬駅へとぶらぶらゆっくりと歩いた。

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