図書館は地域の民度を、高める場所。
お気に入りのカフェにお気に入りのコーヒーがあるとは限らないけれど、お気に入りの図書館にはだいたいお気に入りの本がある。
図書館を好むようになったのはおそらく小学校の「図書室」が心地よい場所だったからだろう。
僕が6年生の夏休み前まで通った小学校は、図書館の構造が秀逸だった。
転校してから一度も訪れてはいないけれど、あのままだったら素晴らしいことだと素直に思うくらいに。
その「図書室」にはプライバシーがあった。
楕円形に配置された本棚と木製のベンチが絶妙なほど他人の存在を忘れさせる。本に没頭できる環境と空気がある場所だった。
もちろん小学生が全員おとなしくできるわけもなく、そこにも配慮があった。
楕円形から廊下を横切ると開放的な「プレイルーム」がある。
そこは申し訳程度の本が目立たない場所に配置されていて、その他は全てがオープンスペース。本を読まない児童はそこを意味なく走り回って、そのうち飽きて教室に戻る。
人を集める仕組み
人を帰す仕組み
2つが同居する洗練されたデザインがそこにはあった。
本を読むか読まないかより「そこに本がある」という事実が図書館にはある。
図書館にある本を見れば時代がわかる。
戦時中は国民の戦意を高揚させただろう。
戦後はよりさまざまな文化が集まっただろう。
そして時代に捉われない「権利を守る」存在としても常に機能している。
マイノリティも、差別も、図書館はその自由の名の下に守ることができる。
そして図書館はその地域を反映する。
以前ある介護施設の「図書スペース」に英語の建築本がいくつも並んでいる様子を見たことがある。
そこを訪れる人はほとんどがいわゆる「農家のおばあちゃん」たち。
人も、本も、全ての時間を空虚にしてしまう場所は図書館と言うにはとても寂しい。
図書館はどこまでも透明で公平で、地域という生体が生き続ける限り情報を提供し続ける存在。
人が来る場所、人が得る場所、どこかアート的で、デザイン的で、集約と創造を起こす文化の発信源。
ヒト、コト、地域、社会、文化が多様化していく中で、おそらく図書館もその表情を少しずつ変えていく。
紙の本に加えて電子書籍も並んでもいい。
飲食禁止も変わるかもしれない。
大人が本を読む姿を泣きじゃくる乳幼児にも観る権利が開放されてもいい。
ビルディングタイプから縮小してもいいし、なんなら屋外だっていい。
図書館という存在の尊さは時代や姿が変わっても変わらない。
図書館は民度高める存在。
その日まで集まった「ヒトの叡智」を詰め込み、明日の民度高めることができる。
さぁ、道端文庫も発展していこう。
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