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No.8 ディエジェーズの相対化

私の研究・教育体系 D-Method のメインフレームは、「物語の具現化構造」です。略して、物語構造と呼んでますが、すなわち、物語世界(以下、ディエジェーズ)物語叙述(以下、ナラティブ)物語言表(以下、レシ)の三段階からなる三段階のモデルです。簡単に言うと、映像で物語を作るときの構造です。

多くの人は、撮影技術+編集技術=作品と勘違いしていますが、それはレシの手段に過ぎません。ストーリーを紡ぐナラティブと、それが描き出す世界観、ディエジェーズの構築なしには、作品はできあがらないのです。ナラティブの担い手はディレクター、ディエジェーズの担い手はプロデューサーと書けば、より具体的にイメージできるかもしれません。

私は15年ほど民放局に特集を提供してきましたが、実はもともとテレビに強い不信を抱いており、駆け出しの頃は「ビデオアクティビスト」と呼ばれていました。テレビの仕事をする前も、従事しているときも、その後も、一貫してボトムアップの報道を目指してきました。

ボトムアップ型のワークフローでは、主にナラティブの構築に鍵がありますが、「アクティビスト」時代、一度だけディエジェーズの相対化を試みたことがあります。それが「新宿路上TV」の活動です。

新宿駅西口に段ボールハウスが軒を連ねていた頃、そこにコミュニテイ放送を流す活動でした。野宿する人々の日常、人物紹介等のコーナーで構成されたニュース番組で、自分自身がキャスターを演じていました。これは、映像作品というよりも、リアルタイムに路上で放送されるというスタイルの、美術的に言うとインスタレーションです。当時は、上野俊哉さんら現代思想の担い手たちが、これを賞賛してくれました。

その狙いは、コミュニティの全体像を可視化して、支援運動をまとめる一助になること、そして通行人向けとしてはディエジェーズの相対化を訴えるところにありました。つまり「これが野宿者の立場から見た社会だよ」というメッセージを投げることです。

報道分野におけるディエジェーズは、再構成された現実世界であり、どの国でも、それを頼りに人々は暮らしています。つまり、テレビの存在が、ドグマ的な世界観を支えているのです。通常それはあまり相対化できません。

けれども、私にはどうしてもやらなければと思っていました。すなわちマジョリティとマイノリティの立場の逆転です。支援者が炊き出しの場にテレビを用意してくれて、食事をしながら皆で見る。自分や仲間の姿を見て喜ぶ。それを立ち止まった通行人が遠巻きに見ている。そこには、マイノリティが主役の輪ができるのです。

かくして、私は野宿者から見たディエジェーズを作ることに成功し、テレビや新聞の取材を受けることも多々ありました。私としてはカウンターカルチャーの一手段として、社会に提案したつもりでしたが、後にも先にも、同様の活動は現れず、「新宿路上TV」は未だに「ビデオアクティビズムの金字塔」と呼ばれています。

日本のテレビは横並びで、あまり個性がありません。もっといろいろなテイストの局があってもいいのにな、と昔から思っていました。そういうふうにテレビが舵を切るとしたら、それは彼ら自身が滅びに瀕したときだろうと想像しています。(2023年8月14日)

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