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廃用身との等価交換


神が与えた廃用身…
何との等価交換なのか…
きっと、何かがあるはずだ…


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「廃用身」(はいようしん)という言葉をご存知でしょうか。
介護の現場で使われる医学用語で脳梗塞などの麻痺で回復の見込めない手足のことです。

「頭は わたしの 廃用身」
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久坂部 羊著「廃用身」より引用


僕は色々な病気を持っている。
一型糖尿病、アルコール依存症、下肢不随…


初めて病院へ運ばれたのは、38歳の秋だった。

以前働いていた会社を辞め、新しい会社で働き始めて半年も経たない日だった。

倒れる1週間前から体が重く、胃痛が激しい中、働いていた。働き始めてばかりだ。体調が悪いなんて口が裂けても言うつもりはなかった。しかし、明らかに雰囲気のおかしな僕を見て上司が帰宅するように促した。体を引きずりながらタクシーに乗ったのを覚えている。

家で横になっていると、同棲していた彼女が病院へ行けと催促する。頭の中は「休めない、休む訳にはいかない」でいっぱいだった。

1週間前に、彼女の乳がんが発覚したばかりだった。

20代前半でまさかのがん。治療費は彼女の親が出せない状況だったため、僕が出す事を約束していた。

「絶対に休めない」

夕方、身体中が鉛を纏ったように重い。
限界が来た。救急で病院へ行った。

泣きながら彼女が近くに住む父を連れて来た。

「先生、コイツは酒でこんな風になったんでしょ?肝臓でしょ?」と父が聞く。

「糖尿病ですね。劇症型一型糖尿病という病気になってますね」と先生

え?

自分でも酒が原因だと思ってたのに、糖尿病?
何それ?…………

それから2日間記憶はなく、目が覚めた時に見たのは、不味そうな夕飯だった。

混乱/動揺/焦り…言葉にならない。

どうなってんだ…………

隣に座っている父が、情けないヤツだとぼやき、彼女が飯を食えと怒っている。

どうなってんだ…………


一型糖尿病は、よく耳にする糖尿病(二型糖尿病)とは異なる。

二型糖尿病は、食生活の乱れによる膵臓から分泌されるインスリンの限界を超えて起こるが、一型糖尿病は、膵臓のインスリン分泌機能が原因不明で停止してしまう病気だ。昔は子供だけが掛かる病気として認識されていた為、小児糖尿病と呼ばれていた。一型糖尿病は糖尿病の1%しか現れない珍しい病気で、海外では難病指定されている。

「これからインスリン生活を始めましょう。」

病状が落ち着き始めた入院3週間目に先生から言われた一言だった。

「今後ご飯を食べる前に、自分で血糖値を測って、注射を打って下さい。あと寝る前にも」

今後一生しなければいけない習慣が始まった。

毎食食事前に血糖値を測定。測定結果とこれから食べる食事内容を把握して、炭水化物量がどの位かを考える「カーボカウント」を行い、インスリンの量を考え注射する。
この日常に慣れるために「教育入院」という入院で3週間過ごし、退院となった。

日々の生活は、思ったほど大変ではなかったが、2ヶ月に一回の定期通院で2万円を払うことが苦痛だった。

彼女の病院代も嵩んで行く。
仕事で結果を出して、給料を上げなければ。

色々な仕事をして、結果を認められ課長に昇進した。お金は何とかなった。体も大丈夫だ。

何とか順調な生活が続き、彼女のがんも寛解した。でも、彼女は10年間はホルモンを抑える薬を飲み続けなければいけなく、子供を出産する事も難しい。抗がん剤で抜け切った彼女の頭を触りながら、結婚が頭に浮かんだ。

これもいつか書くことになるかもしれないが、僕はバツ1だった。

「バツ1でも良いなら、一生一緒にいよう」

自分なりに彼女に出来ることは結婚だった。
頑張って働いて再発しても支えよう。
当たり前のような、何となくの流れで結婚した。

「病気夫妻」の誕生である。
しかも15歳下の奥さんの誕生である。

外を歩けば「娘さんは…」と店員に声を掛けられる事も当たり前。「奥さんは…」と話しかけられれば、機嫌が良くなり、勧められた商品を買ってしまうバカな夫だ。

そんな夫婦生活が始まって少しした頃、
コロナが姿を現す。


僕が大きく変わるきっかけが始まった。


以前の日記にも書いたが、僕はIT系の仕事だったため、会社も時代の流れにすんなりと乗り、在宅勤務が始まった。
在宅勤務と共に、会社の方向性も変化していった。

新しい事にチャレンジしなくなっていったのだ。

僕がこの勤務している会社に入社したきっかけは、登録していた転職サイトからのヘッドハンティングだった。

職種は「サービス・イノベーション」
簡単に言えば、IT新サービスの企画だった。

昔から新しい事を発想し実現させる仕事が好きだし、向いていた。だからこの会社に入った。

会社が新しい事にチャレンジする事を辞める。
それは「もう用無しです」と通告されたも同然だった。

でもこのコロナの状況と自分と彼女の体の状況を考えると、大手の子会社であるこの会社に在籍し続ける事が最善の選択だと判断した。

この判断により、暇な毎日が始まったのだ。
「用無し社員には、ルーティン作業でも」

「安泰した会社で、大した仕事もしない暇な毎日で給料が貰える。いいじゃないか、それで。」


これが自分をどん底に引き落とす事となる。

「暇」=「飲酒」が始まったのだ。

お酒と僕の話は、また今度詳しく書くかもしれないが、僕はお酒が大好きだ。
「血」とも言うべきか否か。
※noteに以前書いた「僕と音楽の出会い」をご参照下さい。

「ルーティン作業」
これも「飲酒」の引き金となったのだ。

「何で俺がこんな仕事しなきゃいけないんだ」

仕事に向き不向きは誰にでもあるが、同じ事を言われた通り繰り返すこの「ルーティン作業」が本当に苦痛だったのだ。
「ルーティン作業」が向いている人を尊敬する位、僕には耐えられなかったのだ。
しかも「暇」である。

「じゃあ飲むか」

苦手なりに何とか作業をこなして「今日は終わり」と決めワンカップの蓋を開ける。
そして次第に、仕事が無ければ昼間から蓋を開け出すようになる。

お酒を飲んでいる僕を元々嫌いだった彼女は、当然あり得ない日常を耐え始める事になる。

こんな毎日だけではないが、彼女は色々な事に耐えきれなくなり離婚を決めた。

「もういい。飲めりゃ、それでいい」

ただノートパソコンを開き、来る用件だけをこなす毎日。
こんな毎日なのに給料だけはしっかり貰える。
何もしていないのに貰える給料に
嫌気がさして来た。

大切に誇りにしていた仕事と彼女を失い、
ただ飲み続ける毎日…………

誰とも話さない日々…………

笑顔のない日々…………


2年が経った。

いつものようにお酒とタバコを買いに行こうと立ちあがろうとした。立てないのである…

立てないどころか、右腕が痙攣し始める…え?

救急車を呼び、病院で血液検査をした。
「低カリウム血症ですね」

お酒ばかり飲んでいて、全く食事をしない状態が続きビタミン不足から起こる状態だった。
3日入院し、退院した。

「食えばいいんだろ」

退院して直ぐに飲み始めた。
結局何も口にしなかった。


段々「生きている意味」がない気がして来た。

「もういい。やりたい事はやって来た。別に生きている理由もない。このまま飲み続けて体がダメになったら、そのまま死のう」

ただただ、飲み続けた。

立てない。歩けない。

お酒はウーバーイーツで注文し、這いつくばって玄関まで受け取りに行った。
タバコは近くに住む母に買って来てもらった。

トイレに行けず、用便を漏らすようになる。

見兼ねた父が優しく「もういいだろう」と言った。
意識が朦朧とした中で、救急車が呼ばれたことを覚えている。

病院に運ばれた事はなんとなく覚えているが、1週間意識が無かったことを体が回復してから聞いた。

長い入院生活が始まる。

最初に運ばれた病院は、一型糖尿病や初めて立ち上がれなくなった時に運ばれた病院で、僕の事や生活をよく分かっている病院だ。
「立って歩きたいけど、どうしたらいいですか?」
「転院してお酒について考えましょう」

お酒に関して強い病院ではない為、アルコール依存症に強い病院へ約1ヶ月後、転院となる。
「立って歩きたいけど、どうしたらいいですか?」
「転院してリハビリしましょう」

リハビリに関して強い病院ではない為、リハビリに強い病院へ1ヶ月後、転院となる。

毎日1時間以上キツいリハビリを続けていても、何も変化が起こらない体に嫌気がさし始めた約2ヶ月後に、何となくタイトルが気になって読んだ本が「廃用身」だった。

小説の一説に
「よく映画やテレビで、血のにじむようなリハビリで回復したというような感動的な話がでてきますが、それはフィクションに過ぎません。」

そう書かれていた。

何度もその一説を読み返し続けた。

「俺かな?」

段々「立ち上がり歩くこと」を
諦め始めだしていたのだ。


聞いてみよう。

「自分の体がどうなっているのか、
はっきり知りたいんですけど」
「転院して詳しく調べてみましょう」

確定した診断をすることが出来ない病院ではない為、神経内科に強い病院へ約3ヶ月後、転院となる。
「立って歩けるようになれますか?」
「立って歩く事は難しいですね。」

そうなんだ。

僕はもう「立ち上がり歩くこと」は、
出来ないんだ。


意外とショックではなかった。

立って歩けなくなり、車いすの生活を5ヶ月以上過ごし、毎日1時間以上のキツいリハビリを3ヶ月続けて「頑張れ!よくなって来ている!」と励まされても、なんの変化が体に起こらないと
「無理じゃねえか?」と勘づくものである。

1週間後、リハビリの病院へ戻る。

立ち上がり歩くために続けていたリハビリは、これ以上悪化しないようにする為の、軽いリハビリに変えてもらった。



これからどうしよう。


思い出した、そうだ。障害者になったんだ。
逆に活かして生きていこう。
働かなくてもいいんだ。


少し複雑な話になるが、ちゃんと給付していれば何かが起こった時になると国から年金が貰える。

よく耳にする高齢者になると受給出来るのが養老年金だが、年金には遺族年金と障害年金と全部で3種類ある。

年金はどうしたら受給出来るのか?
簡単に書くと、
・「老齢年金」=60歳から受給可能
・「遺族年金」=夫や妻や親が他界したら受給可能
・「障害年金」=体が不自由になったら受給可能

僕は「障害年金」を受給する資格がある。

いくら位貰えるのか?
年金の支払いは簡単に書くと、
・会社員や公務員=「公的年金」=収入に準ず
・自営業や個人で収入獲得=「基礎年金」=月¥16,520

「公的年金」は沢山払う代わりに、沢山もらえる。貰えなさそうな印象の年金の簡単な構造。

僕がこのように「立ち上がり歩く」ことが出来なくなった原因にお酒だけでなく、糖尿病も関係し脊髄の神経障害を起こしていた。病気の始まり「初診日」(ここ重要)が会社員時代となり「公的年金」を受給する資格がある。

以前会社員だったが「初診日」が今は自営業や個人で収入獲得している状況であれば「基礎年金」となる。これが非常に大きなポイントだ。
つまり、昔は会社員で基礎年金よりも多額の年金を納めていたにも関わらず、今は自営業などで「初診日」が基礎年金を支払っている状況であれば「基礎年金」しか貰えないのである。
沢山払ったのに。

つまり僕は「公的年金」で「障害年金」を貰う権利がある。

更に障害者は、市町村/都道府県/国から障害手当が出る。それだけではない。各種税金の減額、各種福祉的有利条件等が付随する。

計算すると、働かなくても生活出来る。
ちゃんと働いていてよかった………


一型糖尿病、アルコール依存症、下肢不随…

あんまり長くは生きられない。
でも「後悔のない人生」を送って来た。
間違ってなかった。誇れる。


決めた。

もう無理して嫌な仕事はしない。

お金にならなくても
好きな事をして
人が笑顔になれることだけしよう。



「自分らしく生きよ」

それが神が僕へ与えた廃用身との等価交換だ。

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