曖昧な表現の必要性
noteもそうだが、D1084という名前でTwitterやYouTubeなど色々な表現をしている。
D1084と言う名前の理由は簡単で、僕の名前をアルファベットと数字に置き換えて、ドメインが取れるか試してみたら取れたので使っていると言う理由だ。
でも当然初めてD1084を見た人は「何これ?」と聞いてくる。中にはD1084を見て、色々想像する人もいる。
「こんな風に見て思った」と言われた例を上げると、
aさん=何これ?よく分からない
bさん=村上春樹の1Q84をモチーフにしたのかと思った
cさん=実家の住所と同じだ
曖昧な言葉を見ると、人それぞれ今まで生きてきた自分の経験/体験を探り「このことかな?」と予想する。人によって捉え方が違うのが面白い。
以前、音楽をやっていた時に歌詞を書いていた事をnoteに書いたが、テーマとなるキーワードだけインパクトを出して、他の歌詞に書かれている脈略は聞く人によって捉え方が変わるように作っていた。
自分と全く同じ生き方をして来た人なんていないから、聞いた人それぞれが自分なりに文脈から自分に重ねられるよう出来るだけ「曖昧」に書いた。
この「曖昧」が今日noteで書こうかと思ったキーワードだ。
映画を好きでよく見る。敢えて論ずる必要はないが、邦画が好きだ。
今は随分と変化したようだが、洋画と邦画には決定的とも言える構成の違いがあった。
よく散見する違いを簡単に言うと、洋画は3段階構成になっていて、①主人公の素晴らしさ②主人公の苦悩③主人公の復活だ。見終わってスッキリする。
対して邦画は、起承転結の4段階構成になっている。結末はハッピーエンドで終わるパターンはあまり見受けられない。
僕は邦画の方が好きな映画が多い。見た人によって結末の捉え方が違うようになっている事が多いからだ。
何で好きなんだろう…
曖昧…
要するに「曖昧」なのである。
脚色的表現だが、「曖昧」は「アナログ」と
言い換えさせてもらう。
普段生きていると「曖昧」に生活する事はあまり出来ない。極端に言えば、欲しい物はちゃんと値段が決まっていて「僕はこのくらい払おう」と「曖昧」にはいかない。
明確…論理的…
仕事もそう。
「論理的」に「明確」に進め目標を達成させる。
これでいいのだ。
これも脚色的表現だが、「明確 / 論理的」は
「デジタル」と言い換えさせてもらう。
でも、これでいいのか?
どこへ行けばいいのか…………
「アナログ」と「デジタル」の波形を
見れば一目瞭然。
「アナログ」は「曖昧」な曲線で状態を示し、
「デジタル」は0 or 1のスイッチが入っているかいないかで状態を「明確 / 論理的」に示す。
「アナログ」は曖昧。
「デジタル」は明確 / 論理的。
デジタル化された表現が
まだ受け入れられない人、社会は
まだまだ残っている。
でも、変化し続ける。
当たり前になる。
初音ミクが登場した時に違和感を感じても、人間が歌っているように聞いて感情移入するように。
でも、「アナログ」は絶対消えない。
「アナログ」の良さが見直される。
僕の20歳くらいの時にレコードが見直されたように、今の若い世代で僕の若い頃に当たり前に使っていたテープが見直されているように。
何で「アナログ」は生き残るのか?
人間は「アナログ」だからだ。
0と1だけじゃない。
絶対に存在し続ける。
「アナログ」が必要なんだ。
「デジタル」で生きてきた俺が言う。
そこには【無限】がある。
十人十色に染まれる表現を目指したい。
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