アニミズムをどこまで許すか?

 アニミズムを短く定義すれば
 「自然界のあらゆる事物に霊魂が宿ると信じる考え方」とある。
 今日、最もアニミズムを象徴するのが、
 シリであり、アレクサだ。
 私たちは、彼らがまるで生きているかのように接している。
 無言ですらなく多弁なアレクサに霊魂を認められても仕方がないように思う。

 では、なぜ、今回、私が
 アニミズムを取り上げるかというと
 私が未来5月号の原稿で、
 このアニミズム的表現をしているからである。

 私たちは、風の声を聴くかもしれない。
 あるいは、木々の脈動を感じ取ることができるかもしれない。
 そして、河や湖は、命を奪い、そして、再生させる
 息吹を持っているかもしれない。
 私たちは実に、自然界の声に恋い焦がれてはいないだろうか?
 私たちは、環境によって自分を定義しているから
 その環境が変われば、否応なく
 価値観が変化していく。
 もう、スマホのない世界には戻れない。
 友人よりもTwitterやNoteが大事で、
 スマホが話し相手になる、なんてのは現実に起こっている。

 5月号で私は、あるアニミズムを用いている。
 私が日本人として、この風土の中で育ってきたことを
 無自覚に表象するキリスト教徒としての危機でもあるかもしれない。

 私たちは、アニミズムではなく、聖霊を求め、
 そこに、常に共にいて下さるインマヌエルの神を想起する
 べきである。
 魂を否定しないが、魂が、聖霊より優位に立ってはならないと考える。
 だから、アニミズムは、表現として避けるべきであるが、
 アニメーション勃興期の日本において
 アニミズム的表現を避けることはできないだろうし、
 むしろ取り込むべきだと思っている。

 未来5月号は、アンニュイにアニミズムを取り込んでいる。
 キリスト教徒はアニミズムに懐疑しなければならないが、
 私個人としては、「魂」は存在すると思っているから
 その用語の使い分けをしっかりしたい。
 ただし、キリストの霊に優るものは、何一つない。
 キリストは、天上で、私たち信仰に揺らぐ者の
 手綱を引いていて下さる。
 冗談でいう、異端的だが、
 私の信仰は、まったくもって異端ではない。

 アニミズムをどこまで認めるか?
 それが、日本人キリスト教徒の悩ましいところである。

 以下、未来5月号原稿

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