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現代長歌を熱く語る。Vol.2

もっと砕けよう。
 現代長歌は、元々、種に過ぎなかった。
 私が、やりたかったのは「会話体短歌」という
 今から見れば、不完全で、かつ、欠陥を孕んでいた。
 現代長歌は、コンセプチュアルな短歌から始まっている。

「会話体短歌」とは、「57577」の中で、独白
 のみならず、作中に人物を二人出すという
 コンセプトだった。
 この短い詩形の中に、二人の人物の「会話」を入れる事
 それがコンセプトだった。
 短歌でいわれる「近代私性」へのカウンターであった。
 しかし、歴史は、それを良しとはしなかったのだろう。
 私は、灰を被って隠遁の生活に入る。
 もちろん、そこにはおごりがあった。
 言い訳として、ある確信があれば、人は容易く調子に乗る。

 あの頃の私を振り返れば、
 道を過ぎる中で、すれ違った人物の一生などどうでもよいだろう。
 しかし、私は、そのどうでもよい人物としてどうでもよくなった。
 元々、持っていた世界のヒビに、容易く嘲笑の言葉が入っていった。

さて、
 例えば、

「暑いね」と「顔溶けるほど」化粧のことを君は溶けると「カフェに行こうか」

「会話体短歌」とは、こんな短歌を目指していた。
 作者、作中主体論争は、堀田さんが角川「短歌」できれいに分類したのを覚えている。
 (実家に帰って9月中に探そうと思っている)
 その分類が、秀逸だったからよく覚えているし、自分の「会話体短歌」の理論にしていた。

現代短歌には、ぎりぎり「二人」存在することはできる。
 しかし、意味上の問題で、薄まるということが課題だった。
 挙げた短歌だって、日常の一コマに過ぎないと、思われるだろうし、
 「化粧溶ける」のおかしみをくみ取ってくれない、のが
 たまに傷だ。

そこで、私は、長い煩悶の中で、きっかけとしては、黒瀬さんのメールから
 「現代長歌」を始める。
 この「会話体短歌」をやっていたから
 「現代長歌」は容易く「会話」を受け入れている。
 当然のように、心の中の独り言も独白も、そして会話も取り込んでいる。

技術的には、このような前提があり、現代長歌とは、そもそも
 歌壇における「近代私性」へのカウンターカルチャーなのだ。
 その事を自分で言わなければならないほど「黙殺」されているから
 自分の「晴れ」が近づいているから
 (メンタルは弱いから厳しいことは言われたくないための弁明) 
 このエッセイを始めた。

「現代長歌」の背景には、私の歴史だけでなく
 技術的なこともあるのだと弁明して、
 熱く語るVol.2を整えたいと思う。

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