ミドルバース

 私は長歌でライトバースを試みてきた。
 例えば、これ。

57ストリート|蓮沼明「長歌」歌人 (note.com)

 しかし、どうしても私は本歌取りをしたいタチらしい。
 そうすると意味が重層になる。

 ある長歌では、聖書からの引用を一行一行つけるという
 キリスト教徒以外にはとっつきにくい長歌も作ったりしている。
 それを仮にヘビィーバースと言えば、
 (ヘビィーバースを定義づけるならば、長歌一行短歌一首にたくさんの引用(あるいは隠喩)を紐づけ、一行一首が持つ抒情以上の内容を持たせた長歌あるいは短歌)
 それは、ある意味で前衛的暗喩活用に倣う「前衛短歌(長歌)」になるだろう。
 しかし、私は、その前衛からライトバースに移ったモダンを知っている。
 言うなれば、前衛はヘビィーバースであって、平成短歌はライトバースであったのだろう。

 そこで、だ。
 例えば、一行ないし一首の言葉は平易であるが、意味内容は、あらゆる引用によって成り立つ、一行ないし一首(それは連作を前提にする)を追求することを
 「ミドルバース」という造語で呼ぶならば、それは有効だろうか?
 引用あるいは暗喩というものは、作者が思うよりも読者に理解されづらいのは明白であり、引用はある程度開示するべきだし、学術文章ならば、明かすことが、むしろ必要だ。
 一行一首は、学術文章ではないから引用を必ずしも明かすことをしなくてもいいだろうが、
 「ミドルバース」は、あえて、そこを明かすという方法論も見えてくる。

 「ミドルバース」という造語で説明すると分かりやすい。
 それは、軽いタッチで読まれ、必要以上の引用の土台を明かす。
 「聖書引用」は、その聖典を土台にした私の歌を飾ってくれる。
 それは、日本のみに留まらない「聖書の民」にも呼びかける。
 しかも、引用は、聖書だけでなく日本の文学、日本の歌、日本の詩、海外の詩、海外の戯曲、海外の文学なんでも引用することができる。
 しかも「ミドルバース」は、その長歌短歌を素直に読むこともできる。
 つまり、引用暗喩が主なのでなく、抒情と引用が折り重なるものなのである。
 その引用と抒情とは、バランスが重要になるが、
 来月(もう半月だが)の「未来」でやれたと思っている。
 ただ、今は、引用過多の長歌も作っている。
 とにかく、「ミドルバース」という仮説を追っていきたい。

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