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現代長歌への熱を語るVol.1

”現代”長歌なので、現代を考えなければならない。
 歌壇における現代とは「ある歴史的地点から今現在の範囲で行われる短歌一般の活動の時代性」
 とも定義されるかもしれない。
 この定義に従って、ある歴史的地点とは何か?
 といえば、塚本邦雄が積極的に行った「句跨り句割れ」から”現代”は始まり、短歌の韻律は再定義されている。
 ”現代”的であるならば、まず第一に韻律の呪縛から「解放」されていなければならない。
 反対に、定型主義もあるだろう。それもまた”現代”なのだが、
 その歴史的地点の地平が違うので、意見は平行してしまう。
 ”現代”の歴史的視野が、定型主義者の方が遠いところに設定している。
 解体された韻律を信じるということは、カトリック教会とプロテスタント教会の聖餐論のように
 交わることを良しとしないし、どちらも、それを好ましいものと思わない。
 それが宗教改革の旗印にされ、その微妙な差異が大きな亀裂を産み出している。
 この「韻律解体派」と「定型順守派」は、同じ歌壇に住む者だが、本質的には相反する信条的壁が実は存在する。

私は、ここに”キリスト教信仰”を加える。
 なぜ、そうするのかと言えば、短歌が本来的に万葉集から始まる国民の歌というだけでなく
 多くの天皇が残した御製や高名な僧侶が残した釈教歌がある。
 本来的に、宗教性があり、かつ、キリスト教歌というのは、”現代”に少なかったからである。
 塚本邦雄の聖書歌がいかにも”現代”的なのは、それが「馴染みのない信仰」だからである。
 それが”現代”なのか、分からないが、基本的に、前時代的なものを含めば、”現代”とは言われない。
 そこから”キリスト教信仰”は不可知の領域だから”現代”的なのである。

今日は、”現代”で終えようと思っているが、
 これまで、韻律が柔軟になっていること、信仰を読み込むことを”現代”性があると述べて来た。
 ある本で聖書の「哀歌」を「短歌」で表現するという本があった。
 面白い試みだが、これは、面白みが信仰者にしか分からない。
 なぜかといえば、それが、「韻律の破戒」をしていないからである。
 つまり、短歌と言えば「57577」であると必要以上に思い込まされていることが
 この本の面白さを弱めてしまった。
 短歌は「5345527」でも全然いいのだ。
 それを押し進めたのが、塚本邦雄であり、その処女作なのだ。

私の”現代”長歌は、基本的に韻律を解体して再構成している。
 だから、歌聖人麻呂とは、根本的に違うが尊敬を込めている。

今日は、韻律と信仰を少し語った。
 9月中旬までこのシリーズを日課にしようと思う。

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