尖りすぎていないか?

 私は歌人である。
 歌を「短歌のみ」を指すとは思っていない。
 だから、長歌を試みているのだ。

 しかし、最近の私の作風は、尖りすぎている
 とも、冷静になると思えてくる。

 単純に、五七五七五七・・・七七
      反歌
     五七五七七
 ならば、いいのだが、
 ある詩的装置を二つも加え、(3月号の未来で明らかになる)
 一見したら、これは歌なのか?
 という疑問を持たれるかもしれない。
 (私自身、冷静にこの詩的装置はやりすぎかもしれないと反省している)

 しかし、私は、その作品を長歌だと主張する。
 私は、たぶん、アイデアマンであり、色々、思いつくタチである。
 自分でやってみて、気に入る気に入らないはあるが、
 長歌という線だけで、私は歌につながっている。
 私の気質として、アイデアと同時に頑固者でもある。
 いくら、長歌が常識とは離れていこうと
 私の中では、「歌」であることに頑固にこだわる。
 それは、後天的なものというより
 先天的な身体のリズムであり、血への敬意・
 血への復讐なのかもしれない。

 正直、短歌は、必要上、読むが、退屈に思うこともある。
 翻訳詩の方が、刺激的で興味深いと思っている。
 それは、私自身の信仰に由来しているのだろうと思う。
 翻訳詩には、ほのかに信仰の香りがしているのだと思う。
 信仰を土台にしない言葉は存在しない。

 私の長歌が、当たり前になる世界線に行きたい。
 今は明らかに異端文学だ。
 内容ではなく、
 形式からして、はじかれてしまうような危惧がある。

 私たちは、新体詩の系譜をなぜか、黙殺しようとする。
 三木露風は、萩原朔太郎によって抹殺されたように思う。
 萩原朔太郎は、偉大だが、功罪もある。
 私たちは、言葉の品格(私は韻律と思っているが)から
 解放されたが、同時に、品格を失ってしまった。

 私は、その言葉の品格にこだわりつつ
 それを、破壊あるいは発展させていきたい。
 三木露風を崩したように
 萩原朔太郎を崩すのが目標だ。

 短歌は短歌だけをやるのではなく
 詩は詩だけをやるのではなく
 歌が詩をやり、詩は歌であるべきなのだ。

 最後に、未来3月号の原稿を限定公開する。
 あくまでも、短歌結社「未来」での掲載が公式になるので
 記事を買って下さった方でも別載は控えて頂きたい。

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