塚本邦雄の死生観
キリストの齢死なずしてあかときを水飲むと此のあはき樂慾
(感想)
いかにも塚本がキリストに成りたかったという詩ではない。
これは、戦争の影を多く含んでいる。
塚本は、あの太平洋戦争(大東亜戦争)で
「死」の側と「生」の側に分かれたことの
自省だと思う。
戦時下にあれば、素直な者は、
戦争に勝つと疑わないから
すすんで戦時へ向かっただろう。
しかし、聖書を知る者
あるいは、キリストとは何者か
知っている者は、
「国のため」という
言葉がどういう意味を持つか?
そして、戦後の大転換をどのように
見ていたか?
アイロニカルを肌に刺さるほど感じる。
それは、キリスト教の神にも向いている。
神がいるのなら争いはない。
という素直な感情だが、
旧約での神を見てほしい。
民族を滅ぼせとの託宣まで与えている。
(キリスト教は、その旧約の神とキリストという神が同一である。ここに、聖霊を加え、「三位一体」という)
(三位一体は、特殊な考え方だが、どれもが差がなく、どれもが同位格である。個人的には、キリストが唯一神と同じ位格を持つことに注目する。もちろん、例えば、ダビデが聖霊を通して、神を識っていたならば、聖霊も位格として重要である。そもそも、神は唯一神だ。)
その私たちを支配する「価値観」という
やつが、一信仰者に押し乗っている。
(私は塚本がキリスト教徒であったと思っている)
死生観の多くをキリストに頼っているのを
想えば塚本はキリスト教徒だ。
死生観は、存在には重い。
私の存在(私が何者なのか)を規定すれば
自ずと私の生き方を決めなければならない。
生き方を決めれば、
最終的な死に方も想定しなければならない。
果たしてどんな死に方をするのだろう。
塚本は、キリストつまりイエスの死の齢を
超えた。指針がなくなった。
これからが己の人生だと吐露しているのだ。
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