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【哲学】映画芸術論

 シネマ(映画)というものは、娯楽性をもつと同時にアートへの可能性をもつ。娯楽性については特筆することでもなかろう。ところが、娯楽を超えて、閉じられている背後世界に対するノスタルジックな気分が生まれてくることがある。アートへの可能性のようなものをすぐに人間は思いつくものである。アートへの可能性というのは、シネマを“向こう側の世界”への超越的な作用として捉えることであり、シネマはその誕生と同時にその宿命性も持ち合わせるのである。

 結局、シネマとは何であるのかを考えるにあたって、この場合における人間とは背後世界の存在が閉じられている、つまり背後世界の存在を否認されている立場であることを確認しておく。そうしたとき、もしかすると向こう側にあるかもしれないと考えられる領域がある。その領域とは即ち、不可視空間、不可能性の領域を意味する。ここで言いたいのは、シネマというものは芸術論的に考えると、こちら側から向こう側の世界を垣間見ることができるのではないかという夢につながるものであるということである。

 シネマは19世紀に誕生し、そこからわずか10年程度でアメリカにグリフィスが登場した。シネマにおける作家の登場により、芸術への可能性が広がったのである。そうして、わずか10年程で向こう側の世界を垣間見ることができるのではないかという夢が実現されていったのである。これこそがシネマの素晴らしい点なのである。要するに、フィルムというものとシネマ(撮られたもの)というものが全く違うものであるということだ。これは芸術においては非常に珍しい点であるといえる。具体例を挙げよう。例えば、絵画があるとする。すると、人間は描かれたものが対象の全てであると思い込む。つまり、人間はこの描かれたものが所詮現象であるということに気がつかないのだ。何故なら、自分の外側に美が客観的に存在すると思い込んでいるからである。つまり、シネマが誕生するこの時代において人間は、背後世界の存在に対してリアリティ(実在性)を感じられなくなったのである。客観的に自分の外側に芸術的な美のようなものがあり、それを絵画などを通して眺めているのではなく、あるのは所詮現象であることに人間は気づいたのである。

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