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【日々】平成の余韻を噛む|二〇二三年六月




二〇二三年六月三日

 猛烈にぐずる男の子。それを若く気の強そうなお母さんが叱る。さらなる絶叫が返ってくる。暴言で応酬する母親。苦しくなった。帰りたいと思った。心臓のあたりに嫌な感じがある。駅へ急ぐ。足を早めても、叫び声はなかなか離れていかない。




二〇二三年六月七日

 よく寝た。でも寝過ぎるので、色々ぜんぜん片付かない。ヘンな夢をみた。会社の上司が出てきたのは、たぶんはじめて。なぜか便座に座って小便しながら小言をきいていた。

 ちかくの学校で運動会をやっている。得点発表。あがる歓声。男の子がちょっと間延びした語り口で入れるアナウンス。BGMとともに退場していくリレー走者たち。なんとなくみていたくて、いつもはすぐ曲がってしまう道をできるだけ校庭に沿ってあるく。
 運動会は大嫌いで、いつも早く終わらないかなとおもっていた。その、はずだったのだけれど、小学校のころはそんなことなかったんじゃないかと、ふと思い至る。あのころは学校がおわったら外でげんきにあそんでいたし、運動は得意でなくても、とりたてて体育が嫌いだったわけでもなかった気がする。たのしく、ふつうに、「子ども」だったとおもう。それが思いだせてすこし、嬉しい。

 さいきん会社で「先生」とちょっとおどけた感じで言われることがよくある。ばかにしやがって、とおもう。ちょっとおどけている時点でそれは意識的か否かにかかわらず馬鹿にしている。ていのいい嘲り。苦々しい。だからそう呼ばれたときはできる限り聞こえなかったふりをする。

 わたしは人と関わるとき、根本的には自分を知って欲しくて、認めて欲しくてそうするのだなと、酒の席で盛りあがる自分以外のひとたちを眺めていておもう。目の前の他者に対しての興味より、この人に自分を知ってもらいたいという思いのほうがつよく在りすぎる。その思いを表現する術にとぼしいのは、ある意味さいわいだったのかもしれない。わたしがひとり悶々と苦しめばいいだけだからだ。目の前の人たちに迷惑をかけずに済む。なんてつまらない男だろうと思う。そんなつまらないおのれに、なにをそこまで拘泥するのだろうと苛々する。自分よりずっとずっと興味深い他者がこれだけたくさん目の前にいるのに。どうしていつまでたっても外に眼が、心が、むいてゆかないのだろう。





二〇二三年六月八日

 混み合う駅の改札前、平然と割り込んでくる阿呆を払いのけたら後ろからしつこくパシパシ、だれかがリュックを叩いてくる。靴を蹴飛ばしてくる。きょうは殺意をおぼえるシーンが多くてつかれる。




二〇二三年六月九日

 病院につく直前で、診察券はおろか保険証までぜんぶ忘れてきたことに気がつく。潔く回れ右する。最近はもうこれくらいじゃ何もおもわなくなった。ひと駅ぶんをあるく。だいぶのんびり歩んでも、じんわりと汗をかいてくる。高架下のキイニョンがイート・インでモーニングセットをやっているのをみつける。人も少なくて、外を眺めてぼーっとできて良い。無意味な休日朝の外出も、ここを見つけただけでじゅうぶんお釣りがくるんじゃないかとおもう。強がりかもしれない。粒あんパンとアイスコーヒー。クーラーがきいていてきもちがいい。休みの朝にここまでさんぽしに来るのも、いいかもしれない。





二〇二三年六月十二日

 眠れず、起きるのもつらい。やめようと思ったけれどなんとか頑張って通院をすませる。時間ができたので、高円寺茶房でモーニングしてみる。地元のおっちゃんおばちゃんの世間話が心地いい。

 いってらっしゃい。
 おつかれさま。
 買い物行くの?
 大谷、ポストシーズンいけるかねえ。

 たまごサンドがおいしい。たしかにエンゼルスの投手陣、残念ですよね。ごちそうさま。

 外は相変わらず、気まぐれにはっきりしない雨模様。その足で何軒か古本屋をあたるも、ねらったところはどこもやっていなくてただ疲れただけで終わる。陰鬱なこころでも淡々と読めそうな純文学を、手頃に読みたかったのだけれど。ほしいときにほしいものはなかなか手に入らない。




二〇二三年六月十三日

 日々、息を吸っているだけでたくさんのちいさな絶望に出会う。頭がスッキリするまで眠ろうとおもうと仕事して家事して寝る以外の時間がないこと。いまの陰鬱な気分でも手にとれるちょうどよい未読の文庫本が手元にないこと。髪型がヘンテコにしかならないこと。ものが手につかなくてしょっちゅうおっことしたりひっくり返したりすること。

 仕方なく本棚をみて、ずいぶん前に挫折して挿したままだった宮沢賢治詩集をかばんにいれて家を出る。むんわりと熱がこもり、汗が噴き出す。きょうもうぐいすが鳴く。春先からずっと、おんなじところでうたが聞こえる。きみは、いつもここでうたっているの? この時季までないている子は、パートナーが見つからなかった男の子なんだって。そう、あーちゃんが言っていたのをおもいだす。

 読み慣れない詩集に、ダイヤが乱れて混み合う電車でかじりつく。ふと目に入ったとなりのお姉さんの微笑。こんなに不快な環境で、たったひとりで、こんなにすてきな表情。わたしはいま、いやいつも、どんな顔をしているだろう。考えたくもない。




二〇二三年六月十五日

 シャツの背中。滲む汗が、ちょっと泣き顔の、ひげのおじさんみたいにみえる。




二〇二三年六月十六日

 ゴロゴロ雷、ぱらぱら雨、とおもえば陽射しがさす。おちつかない。しめって熱をおびたつよい風。みあげるとビルの合間に、たかく宇宙へ手を伸ばすおおきな雲が立ちあがっている。そのてっぺんのほうは全身に太陽をうけて、まっしろにまぶしい。




二〇二三年六月十七日

 山の中にいる。茶畑のプロペラがみえる。山肌。みどり。川の音。木々と土と水のにおいをのせた風。いまいるちいさな小屋の中も、木のにおいでみちている。コーヒーのかおりが、そこにまざりあっていく。やかん。カセットコンロの火。湯気、湯気。いすに深くからだを預けて、しのびよってきた眠気をだきしめてあげる。

 夜、この小屋に連れてきてくれた東村と、肉を焼き酒を煽りながら延々とくだをまく。世界を呪い、社会に噛みつくように酒を呑む。いつしかBGMはYouTubeの「平成ヒットソングベスト〇〇」みたいな動画になっていて、流れてくるメロディひとつひとつに怒ったり泣いたり笑ったりした。どんどん遠ざかってゆく、自分たちがうまれた時代の余韻を引っ張り出して、ながめて、でもどうすることもできなかった。どうにかしたいわけでもなかった。ただ、たのしかった。そしてほんのすこし、かなしかった。




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