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【掌篇】『極夜』(習作)




 黒のロング・コートを羽織って家を出る。まっくらな部屋の食卓の上には、くるみのパンとチーズ、そしてりんご。あの人の、きょうのモーニングに。
 少し重たいパインの扉をおしあけて、ブルー・グレーにしずんだ世界にあゆみだす。彼の机の抽斗にしまってあったクルマのキー。家の前でしずかに座っている、少しくたびれてくすんだブルーのからだに差し込んで回す。彼がそうしていたように、左側のシートに身をしずめる。再び、今度は内側からキーを差し込んで、回す。ガタっと震える。初めてやってみるけれど、ずっと彼の隣で見ていたから、できる。

 走りだす。

 静かに。

 かつてここに座っていた人のことを思い出しながら。



 ――ハルコ、けさはなに食べた?

 朝オフィスで顔をあわせると、ヴィクトリアはこのところいつも、そう尋ねてくる。私が、ほとんどなにもたべていないのをなかば知っているからだろう。

 ――ブレッドと、トマトのスープ。

 私は嘘をつく。
 ヴィクトリアは答えを聞くふうもなく、言う。

 ――ちゃんと、たべて。あたたかくして。まだ、朝は来ないみたいだから。

 そう、まだ朝は来ない。
 おひさまが眠りについてから、もう一カ月には、なるだろうか。

 極夜。
 私たちの住む街に、一年のうち数十日訪れる、長い長い夜だ。

 あれから、ずっと、空は鈍い青灰色のまま。数時間だけ、ほんのりと朝焼けとも夕焼けともつかない色が滲むけれど、そのあわいを抜けることなく、また深いいろの帳がおりてくる。

 そして彼も、おひさまがさいごに沈んだその日の夜から、醒めないねむりに落ちていってしまった。

 あれから、ずっと、私も鈍い青灰色のまま。
 そして私の地平は、ほんの少しもあかるくなることは、なかった。

 ――あたたかくして。

 ヴィクトリアがいったその言葉にはきっと、単に体温を保てという以上に、たくさんの心遣いがつまっているのだとわかっている。
 それなのに、私には彼女のあたたかさを受けとることができない。



 ぼんやり青黒くたれこめる空と、ゴーストみたいにあやしく浮かびあがっている雪の白。四輪がごろごろはしる足元に、二本の真っ黒なレイルが伸びている。薄暗い世界の中で、ヘッド・ライトの手が届くところにだけ、ほんのすこしあたたかそうな色がのっている。

 彼は極夜がすきだった。どうして? と問うと、色が好きなんだ、と言った。青白い静謐と、夜と昼のあわいだけの世界。そのにじむようなうつくしさが、愛おしいのだと。

 ふっと視界がひらけてくる。
 小さな入り江がみえてきた。道は、そこで尽きている。

 私はひっそりと建つ古びたブリキ小屋のそばにクルマを寄せて、しっかりとサイド・ブレーキを引いた。キーを回し戻すと、瞬間、世界から音が消える。シートに深くもたれて、たっぷりした呼吸を三回、繰り返す。頭が空っぽになる。

 窓の外を眺める。

 一面、まっしろに凍りつく地平。このどこかに、大地とおおきな湖との境目があるはずなのだけれど、ここからではまったくわからない。白く凍る地平のほかには、視界の左端からすこしだけ、針葉樹の群れをのせた大地の先っぽが、はみだしているだけだ。

 その向こう、はるか果ての果て、大地と空の交わるところだけが、わずかながら紅く染まっている。
 闇に沈んだ世界に、わずかに滲むひかりのいろ。

 私はそれを眺めながら、左手を伸ばす。ドアについた小さなポケットにさしてあったボトルに手が触れた。とりあげて、ふたをあけると、もわりとあたたかいものが放たれて、香ばしいかおりが鼻をくすぐってくる。ふたにすこし注いで、ゆっくりとすすった。

 極夜に沈んだ世界で、地平の果てをはるかに望みながら、あたたかい、深煎りの渋いコーヒーをのむ。
 彼はこうやって極夜をすごすのが、すきだった。



 風が暴れて、クルマのからだが右に左に大きく揺れた。思わず落としたボトルから、熱い液体が膝上に流れ出してくる。
 私は一瞬、しずかにそれをながめたのち、フタの飲みさしをひとくちで片付け、ボトルをとりなおしてドアを開けた。

 足をおろすと、ざくり、と音がする。
 地の果ての薄明かりへむかって、ざくり、ざくりと、ゆっくりあるいてみる。

 誰もいない。

 地平線。

 いちめん、白。真っ白。

 そしてくらい。薄暗い。
 上も下も右も左も、モノトーン。
 踏みしめているのは大地なのか、凍りついたみずうみなのか。
 ここがどこで、今がいつなのか。

 だんだん、よくわからなくなってくる。



 数刻、歩き続けただろうか。

 視界がまたひとつ、ひらけてきた。
 入り江の出口だ。

 まっしろな「地面」は、まだ遥か遠くにまで広がっているようにみえる。
 けれどここはもう、みずうみの上だ。

 ゆっくりと、雪の上に腰をおろす。

 手にしたボトルを傾けてみる。
 黒く熱い、香ばしい液体が、青白い「大地」に流れ出してゆく。

 ゆらりゆらりと湯気がたつ。

 コーラのアイスみたいな、つめたい黒茶色が広がってゆく。
 けれど、かたく青白い「大地」はかわらず、そこにどっしりとある。

 数十秒ほどで、ボトルからはなにも出てこなくなった。私はからになった容器を転がしてから、つづいて自分のからだも雪のなかに放り出した。

 ざくり。

 意外と硬いんだな。
 耳をあてると、カチカチカチ…と、まっしろな「地下」でなにかが鳴るのがかすかに聞こえる。

 目線の先には、はるかな地平。

 私は、ある種の心地よさみたいなものを感じていた。そう、自分はずっと、こんなふうに横たわっていたかったんだ。だれとも会いたくない。なにも食べたくない。なにも、したくない。それなのに、あの人がいなくなってからの一カ月、世界は私にそれを許さなかった。

 あれを片付け、これを処理して。
 いろんな人が、あそこへ行こう、これを食べようって。
 こんな時だからこそ。
 しかも極夜 カーモスだからね、余計にね。
 そんなふうにして。

 でも違う。

 私はもう、何にもしたくなかったんだ。こんなふうに、無限に広がる色のない世界で、おおきな無のなかで横たわっていたかった。
 そしてそのまま、無そのものへ近づいてゆきたかった――。



 どのくらい、そうしていただろう。

 もう、上も下も、時間も、からだの輪郭もよくわからなくなってきたころ。
 耳元で囁いていたあのカチカチカチ…という音が止んだことに、ふいに気がついた。

 うっすらと、目を開ける。
 その刹那。

 カッと、何かが世界に差し込まれた。

 顔を上げる。

 明るい、白だ。今からだを包んでいる青白いそれではなくて、少し朱の差した、温度のある白。わずかだけれど、力強い、光。

 すると突然、モノトーンに沈んでいた世界に、ものすごい勢いで色彩が現れ始めた。それはこの一か月、わずかに滲むだけだったあいまいなそれとは違う、本当の「朝」をつれてくる光だった。はるか地平にのぞいた小さく、けれど巨大な光は、どんどん大きくなってゆく。モノクロームの大地から、ものすごい勢いで、今まさにうまれようとしている。そして冷たく静止したこの世界を力強く、書きかえようとしている。

 それを理解した瞬間、からだが何かを思い出したように、洪水のような感覚をつれてきた。

 まず、痛い。
 私が横たわる「大地」に無数に散りばめられた、小さいが一つ一つが尖った結晶たちが、痛烈に全身を刺している。

 そして、冷たい。
 すべてを凍らす空気に焼かれて、内臓の一つ一つ、血液までも全てが零下に凍っているようだ。

 おまけに、太ももがじりじりと疼いている。少し前にこぼれかかったコーヒーの熱で、肌が焼かれているんだ……ああ!

 まっしろい息を切れ切れに吐き出しながら、引きずり上げるように上半身をおこす。さしてくる、あの光を見つめる。

 そのうち、猛然と、轟音をたててからだが震えはじめた。がたがたがた。なにか、ネジの外れたおもちゃみたいに。
 そして少し遅れて、ものすごい熱をもったなにかが、喉の奥からほとばしってくる!

 痛い、痛い、痛い。

 冷たい、冷たい、冷たい。

 そして寂しい……悲しい!

 いたいよう!

 くるしいよう!

 私は……!



「アーッ、ア・ア・ア、ァオーッ、オ・オ・オ、オーオーオ……」



 それは感情の渦だった。この一カ月、少しずつ失っていっていたそれが今猛然とよみがえって、轟流となってお腹の底からあふれだしてくる。とまらない。悲鳴とも絶叫ともつかない、人間にも獣にも聞こえる、そんなさけび。吠えるように、その世界を変えてしまうあたたかく白い光に向かって、叫ぶ。叫ぶ、叫ぶ……。

 こえが続かなくなって、せき込みながら崩れ落ちるように再び雪の中へ突っ伏するように倒れこんだ。それでもあふれてくる感情はとまる気配がない。えずきながら、絞り出すようにまた吐き出すさけび。顔はびしょびしょのぐしゃぐしゃ。それは雪のせいなのか涙なのか鼻水なのか、もうとっくにわからなくなっている。

 そうしてうずくまりながら、私は手のなかにちいさな実感が落ちてくるのを感じていた。


 ――生きている。


 ああ、わたしは、生きているんだなって。

 こんなに寂しいのに。

 生きていたくなんか、ないのに。

 あなたと一緒にいきたいのに。

 それなのに。

 こんなにもはっきりと、生きてしまっている!


 うずくまりながら、私は私を抱きしめる。
 ガタガタガタ。大きく震え続けるからだ。
 どこにこんな力、残っていたんだろうね。もうなんにも、なくなっちゃったと思っていたのにね。おかしいよね。

 よりにもよって、もっとも死に近づいたそのときに。
 私はどうしようもなく、うまれ落ちてからいちばんはっきりとした手触りで、私自身の生を感じている。


 ――流れてゆく水に、逆らおうとしてはだめだよ。


 あの人がよく言っていた言葉を思い出した。

 そうか。
 わたしはまだ、この世界で、流れてゆかなければいけないんだ。
 逆らおうとしては、いけないんだね。

 生きている。

 狂おしいほどに。

 音をたて、震えながら。


 私は、生きてしまっているんだ。

 生きていかなければ、ならないんだ。


 遠い地平の向こうでは、まっしろいからだをした朝が大地からぽってりと抜け出でて、ひと月ぶりの大空を歩き始めている。


 始まる。

 新しい日が、また。





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