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【日々】夏雲にしがみつく|二〇二三年八月




二〇二三年八月一日

 寝つくのにずいぶん難儀したせいで、なかなかベッドから起き上がるための気合いが出ない。窓の外はいつもより暗い。八月は精力的に手を動かす月にしたいとおもうけれど、さっそくきょうは朝の時間がつくれない。とりあえずSNSで今月はやるぞ! と宣言しておく。何の意味があるのかは、わからない。

 職場の最寄駅につくころには、ゴロゴロと低くおなかに響く音が鳴りはじめている。時折ピシャリピシャリと世界が光る。遠くに少しだけ青空ものぞいているけれど、そこからさすわずかな陽光がまわりの黒い雲にギラリと反射して、凶悪そうな顔になっている。

 夜かえってからする家事のくたびれ方は何度やってもこたえる。左耳のなかが腫れているようで、耳のつけ根あたりに呪いの球かなにかが入っているような感じがする。いたい。おもい。口がちょっと開けづらい。気持ちばかりはやって、なにもついてきてくれていない、幸先悪い八月の幕開け。




二〇二三年八月二日

 気になっていた高円寺「R」に入ってみる。直前に悪いレビューをうっかりみてしまって後悔していたけれど、むしろ気合を入れて飛び込めたのでよかった。そういうものだと思って仕舞えばなんてことはなかった。むしろ気楽。さてはこのお方がレビューを席巻していた悪評高きスタッフ氏か! と、むしろ有名人と出会ったような気持ちになる。実際に過ごしてみて思うのは、わたしたちは皆んな過剰にサービスされることに慣れすぎているのだということ。べつにごく、ふつうだった。すこし初見殺しなところはあるかもしれないけれど、何にも知らない人はたぶんここを見つけられないと思うし。部屋の中なのに水音がして、開いた本に木の葉の影がおちるのが、とっても良いな。

 その足で「そぞろ書房」をのぞこうとおもったのだけれど、扉に「店内ではマスクを」の文字をみつけたのでよしてしまった。「持っていない方はお声がけを」ともあったけれど、何だかわるい気がした。まだ、出会うときじゃないのだとおもう。点滅社の屋良さんに、どこかで会えますように。

 太宰『正義と微笑』を読み終える。日記という形をとって綴ると、その日付の飛び方だけでひとつの無言の表現になるのがいい。一切語らないのに、数字の飛び方だけで受け手に無限の読み方を与えてくれる。ごく一部ずつの日常のコラージュが、その向こうにある余白への想像力をもたらすおもしろみ。語られる言葉の少なさが、語られなかった言葉への意識を高めてくれる。糸井重里がむかし、日記の空欄は書かなかったということの記録、というようなことを言っていた気がする。どこで読んだのだっけ。

 それにしても「芹川君」の、ある時を境に日付が一月単位で飛ぶようになることと、かれ自身の現実が進んでゆくこととの関係性は中々リアル。毎日のように綴られる日記は、外に出てゆけない、どろどろとしたエネルギーの露出。それが放たれるべき先を得た瞬間に、一気にほとんど語られなくなる。

 すべての人がそうとは言わない。でもわたしは「芹川君」に近いとおもう。ならばこうして「日記」を綴っているうちは、わたしは何も進んでゆかないのか。苦し紛れの現実逃避行でしか、ないのか。茫漠とした闇を感じる。でも、いまのわたしにできることは、これしかない。

 夕方、保険屋から診査に落ちた旨連絡がある。別に格別希望もしていないものを勧めておいて、勝手に不合格だのと烙印をおすとは何事かとおもう。遭わなくていいはずの不愉快を無理やり贈られた気分でやるせがない。こちとら人間産業廃棄物であることくらい十二分に承知していて、だから「普通」なんて高望みはしていない。ひっそり、余生をたのしみたいとおもっているだけなのに。もう必要以上に構わないでほしいなとおもう。




二〇二三年八月三日

 おべんとうのメインディッシュは、昨日つくった厚揚げとねぎともやしの塩炒め。ごはんがすくなくなってきたら、容器を移していっしょにしちゃう。行儀は悪いのだろうけれど、おいしいたれも油も、みんな拭きとってくれるし、その分お米はキラキラつやつやして、食べてもおいしい。あとで洗うのも、ちょっとラク。だからやっぱりいつもこんなふうにしてしまう。副菜に持ってきたポテトサラダには、底の方に潰しきれていないデッカい芋粒が隠れていた。往生際の悪いやつめ、観念せよとパクリ。おいしい。さいきん隙あらばポテトサラダばかりつくっている。




二〇二三年八月五日

 リズムが乱れはじめている。起きられなくなってきた。早めに寝ても、もう出るギリギリまで起きられない。ぼんやりしたまま身支度をして、炎天下の世界に身を沈める。湯の中をあるいているよう。気が遠くなる。となりをあるくあーちゃんの話も頭に入ってこない。うまく時間をつくれなくて、色んな予定が組めないままズルズルきている。家族行事の日程調整は父になかなか候補日を出してもらえないままだし、なんなら今となりをあるく人からその月は嫌だと今更前提ひっくり返されるし。大事な製作もまとまった作業時間がとれずにとまったまま。日々の些事をこなすだけですぐに一日が終わってしまう。どうして?

 茹であがった頭とカラダで中央線のロングシートに腰をおろす。文庫本を机のうえに置いてきてしまったことに気づく。ぐったりする。まだこれから、仕事。気が遠くなる。




二〇二三年八月七日

 お酒をのみながら、YouTubeでひたすらにライブ・クリップを漁りまくる。やすみだったのに、つかれている。家にいるのに、つかれている。つかれる。生きるのはつかれる。くたびれた。このまま音楽に溺れながら、酔っぱらって死にたい。ことしは生音のなかでからだを揺らす体験が絶対的に足りていない。絵に描いたような空の青と夏雲、シャワーみたいな雨が綺麗な、だのにどうしてだか心はほとんど動かない、そんな休日だった。





二〇二三年八月八日

 三回目にしてようやく、アイスコーヒーのちょうどいいドリップ加減がみえた。気がする。つっかけにボサ髪、ナードマグネットのロンT姿でだらっと買いものに出る。ひき肉を買い忘れる。

 空気を入れ替えるための作業。SNSの運用をかえてみたり、iPhoneの壁紙をすこし入れ替えてみたり。なんとかして、どうにかして、潰れていかないように、とまってしまわないように、わたしはいつもどこか焦っている。

 夜半、ぼんやりと大学時代のことをおもいだしていて、ふいに甦ったトラウマ的に恥ずかしいシーン。心が握り潰されそう。苦しい。気持ちが、悪い。はやく消えてしまいたい。



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