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【日々】雪道がうまくあるけない|二〇二三年二月



二〇二三年二月一日

 昼前、家をでると冷たい空気に混じってどこか、冬らしくない気配がわずかに香った気がした。夜、会社を出るとやっぱりそうだ。花冷えの夜、そんな感じのにおいがする。

 既出の曲を別のアーティストがremixするときの、すでに完成している作品のどこを活かして、組み換えて、どんなものを足し引きして、再構成していくかってところがそのミュージシャンの個性と曲への解釈がゴリゴリに出てくるからほんとおもしろいなあと思う。

 あと、原曲で英語だったタイトルがremix曲では日本語の同じ意味のことばに置きかわってたりするようなマイナーチェンジもすき。本質的には同じなんだけどちょっとだけ味付けが違う。それをわずかなニュアンスの違いでみせてくる感じがクールだな。



二〇二三年二月五日

 国立・museumshopTが入っているビルは階段から上をうかがっても本当にここ? と足がとまるような佇まいだった。意外な感じでちゃんとあった。「小鳥書房と日記」展をゆっくりみて、落合さんの『浮きて流るる』を買う。予算はない。でもここで買わないと、ほしいのにそのまま手に取れずに終わりそうだったから。会計を済ませて出る直前に落合さんがとびこんでくる。バタバタとあいさつだけ。前にお会いした時もこんな感じだったな。会えないとおもわせてギリギリでちょっと会える、ことしのわたしと落合さんはこんな感じなのかもしれない。

 増田書店のおねえさんがなにか拾ったのか、「にゃっ」とかけ声ともうめき声ともつかない音を漏らした。ように聞こえた。そういうかんじがすきなわたしの性癖がつくりだした妄想かもしれない。うーん、すきです。棚を一通り冷かしてから、「ロージナ茶房」でコーヒーをのんでいて……そこで気がついた。聴きにいくトークイベントの開始時間を一時間間違えている!カップにたっぷり残っていたブレンドをあわてて飲み干して「T」に駆け戻った。滑り込みで間に合った……我ながらひどい。いろんなものを台無しにするところだった……。

 この日のトークイベントは内沼晋太郎さん・古賀稔章さんによる「日記トーク」。内沼さんがリモートでのご参加であったことで、”その場にアクセスしているけれど、不在であること”の難しさを漠然とおもう。内沼さんが教えてくれた、金原ひとみさんの試みが面白そうだった。数人で遊びに行った後で、その体験について参加者が各々の視点で書いてくる。同じ時間と場所を共有していても、当然それぞれ違ったものが出来上がってくる。生きていることそのものが個性であり、表現であることがわかりやすくそこに示される。「日記」というフォーマットには、”ある日付と、その日についての内容であること”という、最小限の枠組みだけがあって、そのほかのことはまっしろに自由だ。最初のとっかかりだけあって、あとは何をしてもいい。そして、その人が書きさえすればどんなにつまらないことであっても、個性的な表現になる。わたしはそのちいさな豊かさが、このところ愛おしくてしようがない。

 「書肆 海と夕焼け」の柳沼さんが谷保を出てゆくらしい。ざわざわしてくる。考えたくないけれど、こういうことがあるたびに痛みをもって思い知る。いとおしい「今」は、けっして永遠ではない。



二〇二三年二月七日

 電車に乗り込んでとびら横にもたれて一息つくと、自分のちょうど後ろ、仕切り板の向こうの優先席から早口でまくしたてるような声が聞こえてくる。断片的に言ったいわないみたいな話や人名が出てくるあたり、上司が同僚や部下でも詰めているようだ。優先席で朗々と電話とは、偉そうに礼儀礼節に自説を開陳しているわりに、社会性のかけらもなさそうな男だ。せっかくおだやかに一日過ごせたのに、最後のさいごにこんなトゲトゲしたことばを浴びなきゃいけないのか……とげんなりしてしまう。おまけに一駅進んですぐに非常停止ボタンの扱いがあり、なかなか我が家への距離が縮まらない。ヴィーーーーーッと永遠みたく鳴り続ける、なんとなくこころを乱すブザーの音。

 しかし……男はブザーの音もおかまいなしにやはり喋り続けている。数分後、音がやんで列車が動き出してもなお……なにかおかしい。そもそも、誰かと話しているようではあるのにほとんど息つぐ暇もなく喋っている気がする。こんな長時間にわたってそんなことがあるだろうか。文庫本をあきらめて耳を澄ますと、たしかに誰かに対する語りのような喋り口、それに具体的な人名こそ出てくるが、いまいち話の意味がのみこめない。テンションも乱高下している。これは、もしや……たしかめたいけれど振り向くのが怖い。周囲の乗客も緊張した面持ちで声の聞こえる方をみている。たのむ男よ、ふつうに電話でガン詰めしているただのサラリーマンであってくれ……そう願いながら耳を傾ける話はどんどん乱れ散ってゆく。

 何度目かでドアが開いた。男がなにか言葉を車内へ向けて吐き捨てながら降りていった。手にはスマートフォンこそ握られていたが、通話をしている様子はまったくなかった。



二〇二三年二月十日

 ゆっくり徐行する電車の車窓からみえる、雪にしろくけむる武蔵野の街。にぶいいろの空と、まっしろな屋根と、まっくろな家の外壁。

 別にキャンセルしたってよかったのだけれど、こんな大雪の日にわざわざ出かける口実があるというのもオツだなあとおもったので、立川までOサンに会いにいく。キャリア・カウンセリングという名の雑談。インプットしてきたものが突然相互につながり出して、パズルのピースがパチパチはまってゆくような感覚について。たいした武器もない、これだという場所や人もみつからない、ないないと言うわたしに対して、「いや、おながさんはもうそれを持っていますよ。気がついていなかったり、整理できていないだけでね」と言うOサン。

 迷った末に西国分寺で降りて、クルミドコーヒーに。ほんとうは雪降る街をみながら一息つきたかったのだけれど、こんな日でも存外に席がない。地下の大テーブルに潜りこむ。そしてこれまた迷った末にうっかりケーキのセットをたのむ。迷って迷ってやっぱりとめられないのがわたし。でも、誰がみてもいくべきところでは全然いけなかったりする。

 ずっと読みさして埃を被りかけていた若菜晃子『旅の断片』をひらく。ひとりで「旅する」時に読むと決めたはいいものの、もう一年近くひらく機会がなかった。一〇一ページを探す。あった。尾道でつけた、アイスコーヒーのシミ。大丈夫、まだ旅は死んでいない。

 けれど、みるみるうちにお客さんが詰めかけてにぎやかになってしまって、ほとんど読まずに本を閉じることになった。雪の日にあえて出かけて、まっしろな街を見ながら『旅の断片』を読む。そのイメージの成就だけを願って、結局どれも果たせなかった。だいたいガッチリ構図を決めてしまっている時は、まったく違う結果になるものだ。世界は決して思い通りになどならない。


 さいきん、ここに書くことが減ってきている気がする。きょう家を出た時もそれがちらついて、せっかくこんな雪の日にあるくのだし、しっかり材料になる写真も撮らなきゃ!と一瞬意気込んで……違うよなとおもった。わたしは日々、ふと、ポロリとうまれた心の動きを書き留めたいのであって、書くために素材さがしをしているわけではない。もちろん、書くために目を凝らすようになったからこそ気付けることもあるのかもしれないが、書くためにシーンを作り出すのは間違っている。たぶん、作為でつくったものに力は宿らない。作家や芸能人のようなフィクションのプロならいざしらず、こんな素人の、ちゃちで気取った作りものなんて見るに堪えないおぞましい代物にしかならないだろう。

 まあ、書こうと書くまいと、雪の日に喫茶店でコーヒー片手に本を読む、というれいのイメージはやりたかったのだけれど……。そもそも根本的なところで、救いようのない格好つけなんだ、わたしは。



二〇二三年二月十二日

 いい天気だけれど、風が荒れ狂っている。洗濯物がベランダで大暴れ。二日酔いのからだでそれをただ眺めている。パートナーがくれたカルディのコーヒーは、ビターな味のなかに春めいた香りが差し色のように織り込まれている。夕方、洗濯物をとり込みながら吸い込んだ外の空気はもう冬のそれではなくて、大陸の土けむりとちょっとじめっとした雨上がりみたいなにおい。ひとつ先の季節とスギ花粉の気配がした。



二〇二三年二月十四日

 きょうも通勤する電車の中で管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』をひらく。驚くべき教養の大海が詩的な音色にのって奔流してくる。だからさいしょは読み進めるのが大変だった。でも、すこし慣れてきたようだ。わたしの不能な頭ではすべてを受け止め味わい尽くすことはできないので、ボロボロと指の隙間から流れ落ちてゆく。それでいい。そんなわたしでも半分読んだだけでたくさんの綺羅とひかることばをつまみあげることができた。この本は何度だって読めると思うし、どこから読んでもいい。それに“本に「冊」という単位などない“のだから、一冊読み通さなければいけないわけでもない。そう得心してからはページを繰る手もかろやかになった。身構えることはない、力を抜いて。どうせ、"本は読めないもの"なのだから。



二〇二三年二月十六日

 証明写真を撮る。何度撮り直しても、満足のいく写真は撮れない。時間いっぱいまでたくさん撮り直して、でもどれを採用するのかは焦らず選べば良かったはずなのに、慌てて一番最後に撮った変な一枚で決めてしまった。

 辻山さんと阿久津さんの対談。店は「開いている」ということ。他の店をとにかくたくさん見るしかないということ。インプットはできても、アウトプットするには「運動神経」がいること。仕事は自分の楽しみがちょっと含まれていて、自分を変えてくれたり、人と会わせてくれたりするものだから、「仕事にしちゃえばいい」、ということ。



二〇二三年二月十七日

 みあげた星空。オリオン。どんなにクサクサしていても、はるか遠くきらめくかれらをひと目眺めれば、すっと澄んだきもちになる。ちょっと口の端が緩む。ヘッドフォンからは愛する歌姫が、“きょうだけの音楽”をうたうのがきこえる。生きている。かけがえのないわたしを。あなたを。きょうだけの自分を、だきしめる。



二〇二三年二月十八日

 すべての文章は、読まれたくてたまらないのだと思います。

 そしてそれが、現実には出会うことすらない遠い人々が「世界をどのように想像しているか」をもっともパワフルに教え、それをわれわれ自身が現在いだいているような世界の想像にとっての、脱出のための扉として提供してくれる。
管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(2021,ちくま文庫)p.263

 わたしはわたしの世界の見方を、感じ方を、形にしてつたえたいのかもしれない。そういうものを作り続ければいいのかもしれない。心象と密接に絡みつつ語る、わたしがみている世界。ちいさなことでいい。点描する。世界を表現し、批評し、賛美する。ここでいう「世界」とは、わたし自身以外のすべての事物をさしている。



二〇二三年二月十九日

 町田のジャズ喫茶「ノイズ」。新人おばさま店員の過剰なまでの丁寧さが初々しい。カウンター向こうでなごやかに仕事を教わっているようす。「きょうはゆっくり教えられるね」。流れている曲のことはさっぱりわからない。

 初恋の人が、臨月を迎えたらしい。もうとっくに過ぎた話なのに、彼女が人生のステージを踏むたびに毎回傷ついている自分が可笑しい。でも、それはちゃんと恋を終えられなかったわたしが悪いのだ。死ぬまで、その十字架をひっそりと背負っていくしかない。


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