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【掌編】熱(習作)




 武蔵小金井で降りた。これ以上は無理だとおもった。ホームに出てすぐ、ベンチに倒れこんでしばらくじっとしていた。いってはいけないと絶叫する理性が、もう楽になりたいという身体を必死の形相で押しとどめている。目を見開き、無心で味気ない床のタイルを睨む。電車が数本、着いては発つのを感じながら。そうして十数分ののち、俄かに立ち上がって階段を降りきったところで、そのまま操られるかの如くトイレへ吸いこまれ洗面台に吐いた。理性は呆気なく敗れ去った。

 改札を出て、ロータリーに面した広い歩道に立つ柵へぼんやり身体を預ける。すこしすっきりしている。現金だ。ばかだ。ちらっとそうおもうけれど、それを真剣に受けとめる余裕はもうない。今は、身体がすこしでも楽かどうかだけが至上命題だ。

 なんとなくスマートフォンに手が伸びる。何の意味もなくツイッターをひらく。夢遊病のようにタイム・ラインをスクロールする。親指を繰る、繰る。派手な被写体を下手糞に撮りあげた写真。だれも聞いていない自分語り。おたく。そんなもので埋まるなかに、無造作に撮られた食卓の写真が目に留まった。雑に盛られた素麺と、萎びたスーパーの惣菜に缶ビール。なぜか画面の右上には、ニ本のゴキジェットがうつりこんでいる。

 あいつだ。

 そのままLINEをひらいて、トークのタブを二回スクロールすると、名前があった。タップしてメッセージを打ち、スマホを仕舞った。

 ぬるりとした風が全身を撫でる。身体のまわりはむわりと暑いけれど、芯の方は冷えているような、いやな感じがする。吸い込む空気は熱と水分が濃すぎてスッとからだに入ってこない。息苦しい。この時間でも、パチンコ屋が背後でバチバチ光を放ってきてうるさい。よれたコンバースと薄汚れたアスファルトをみつめたまま、十分くらい呆然としていた。すると視界の隅に、こちらへ近づいてくるものがある。


…なにしてんの。


 頭のちょっと上のほうから、声がふってくる。とりたてて感情の読みとれない、平坦な女の声。


…おー、ほんとにきた。

…酔ってんの。
…吐いた。
…最悪。
…つらいわ。

…どうすんの。

……わかんね。


…家どこだっけ。
…阿佐ヶ谷。
……帰れんの。

…わかんね。

……めんどくさ。


 ちゃちなピンクのクロックスがみえる。そこから白い素足が伸びている。声は割合近いところから降ってくる。白く鬱陶しく刺してくる、パチ屋の下品なライト。


…コンビニ行くけど来る?

…いく。


 柵から尻を剥がして立つ。ちょっと前のめり。ピンクのクロックスを追って歩く。すこし、頭がぐらぐらする。ふー、と、長い息がもれる。空気も、身体も、おもたい。横断歩道を渡る。ぎゃあぎゃあと、意味のない言葉を投げ合っている一団がいる。女と男の声。手を叩く音。前を往く二対の足からは、ペタペタと呑気な音。一、二分ほどで、左手に白い蛍光灯の明かりがみえた。クロックスについて左に進路をとってゆくと、足元が涼しく冷えた白い床に変わった。急冷されたからだがきゅっと、縮みあがるような感覚。濃い藤色のショート・パンツと、ゆったり余しながらパンツ・インした白いTシャツが視界に入る。


……何買うの?
…アイス。
…デブじゃん。
…死ね。
…死にそう。

……水買ったら。

…水。

…うん。


……水か。


 ショーパンが、白い脚が、視界から消える。ペタペタ音が遠ざかってゆく。ぼんやりしながら、なにかをひとつふたつ、手にとった気がする。世界がもんやりしている。汗が嫌なかんじで冷えてゆく。さむい。財布がうまく手につかなくて、小銭入れをくりかえし、小動物みたいにちまちまとあさったような気がする。ビニル袋をさげて自動ドアを抜けると、ふたたびの息苦しい熱気のなかに、ピンクのクロックスのつま先がみえた。


…どっか座るとこない?

……公園でよければ。

…いいよ。お前んちでもいいよ。
…きっしょ。


 ペタペタ音がまたのんびり鳴りだした。白い脚。藤色のショーパンはすこし、ふっくらとした丸みを帯びていて、音に合わせて揺れる。後ろのポケットにダーク・レッドの長財布が刺さっている。左手には白いビニル袋がさがっている。空気は気だるく、水分をたっぷり含んで重たい。ぬるま湯のなかをあるいているような気がしてくる。



 夏に蒸された木々と土のにおい。街灯がまぶしい。こんな夜更けなのに、せみがうるさい。幼稚なピンクが折れた方向へ足を運ぶと、今時めずらしい、それなりに遊具のある公園。街灯のした、しろく浮かびあがったベンチにむかっていく。藤色ショーパンはくるりとこちらをむいて、ぺたりとすわった。ショーパンからすらっとのびた白い脚を右手にみながら、どっさりと腰を落とす。顔をあげると目の前に、阿呆みたいに楽天的な顔をしたらくだの遊具が、にこにこと笑っている。ビニル袋を漁って、缶を開ける。


……酒じゃんそれ。
…うん。


 ビールの泡をのみくだした。すこしぬるくて、まずい。アルコールが頭を揺らしてくる。


…吐かないでよ。
…もう出すもんない。
…きも。


 となりから、しゃりしゃりと小気味良い音が聞こえる。シャンプーのいいにおいが、時折ちらちらと鼻をかすめる。


…アイス、うまい?

……んまい。

……なんで、きたの。

…あんたが呼んだんじゃん。

…ふつう来ないだろ。

……ちょうどアイス買いにいくとこだったの。

………帰んないの。

…帰るよ。たべたら。


 缶をあおる。ほんとうにおいしくない。気持ち悪い。また嫌な汗が肌とインナーの間で滲んでいるのが分かる。熱風で息が苦しい。


…おれなんか、熱あるかも。
…まじやめて。週末ライブいくんだけど。
…なんの。

…バンドの。

…いいの?

……うん。

…CD貸して。

…ないよ。サブスク。


………そ。


 ジリジリジリジリ、せみが鳴く。こいつらはこの明るすぎる街灯のせいで、こんな夜中に鳴かされているんだろうか。こんな時間に鳴いて、かれらにとってちゃんと意味があるんだろうか。


……帰れんの?
…わかんね。

…終電は?
…わかんね。終わってるかも。


………どうすんの。

…どうしよ。おまえは帰んないの。

…だから、帰るよ。

…いるじゃん。


……いまはね。


 ビニルがくしゃりとなる音がして、藤色のショーパンと自分の黒い短パンとのあいだに、口をくるりとしばられたコンビニの袋がぽいとおかれた。ぷしゅりと音がする。右手に視線をうつす。カラフルなサングリア缶。それを持つ白い手。立った小指。あごのあたりですこし、外にくるりとハネた髪。しっとりした暗いブラウンのむこうに、ちらちらと缶に触れるくちびるがのぞく。もう一方の手に青白くひかるiPhoneの画面。目線はそのちいさなハコに落ちたまま離れない。親指が無愛想にスクリーンをたたいたり、上下したりする。こぎれいに、でもすこしとんがってのびた爪。またすこし、シャンプーのかおりがした。たまらないような気持ちになって、もう一度、缶をあおる。何度のんでも、まずい。喉の奥に、腐ったようないやな匂いがまだ残っている。あのサングリア缶なら、のめただろうか。



 ねっとりした風が全身を撫でまわしてゆく。わきのあたりに、気持ちの悪い湿り気がある。両の膝に腕をついて、前屈みにからだをあずける。そうして両手で握りしめたもう飲めそうもないビール缶の、ギラギラした銀色を黙ってながめている。


……なんで、いんだよ。


 答えはない。頭上でせみが短く、ジジジっと悲鳴をあげた。やっぱり、熱があるのかもしれない。






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