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【日々】もう旅に夢はみない|二〇二三年五月




二〇二三年五月二十九日

"生活は、本当にささやかなことの積み重ねだ。牛乳パックを洗って開いて乾かして回収に出すとか、シャンプーやハンドソープの詰め替えとか、ごみ袋の補充とか。頃合いを見て、あるいは定期的にタオルを買いかえ古いものは切って雑巾にするとか、春が来たら毛布を洗ってしまって夏が来たらタオルケットを出してそれも寒くなったらしまわなくてはならない。人は老いていくしものは汚れたり壊れたりする。そういうことにうまく対処し続けることが、生きるということに繋がっていく。それは私にとって絶望と同じようなものだ。"


 生活。ああ、そうだなとおもう。あわい色をした、輪郭の薄いくらしのスケッチ。そのなかで時折、四季の花々や、グリンピースや、にんじんが、ハッとする鮮やかさで散りばめられている。このひとのつづる暮らしは、淡々とうつくしい。そしてその底にはずっと、ちょろちょろと絶望や哀しみが流れている。そんな在り方に強く惹かれている。

 会社で健診を受けたら、背が二センチも縮み、おまけに不整脈だから病院へ行けと言われる。今にも死にそうなよぼよぼのおじいさん先生がふるふる震える手でレクチャしてくれる。以前頚椎の椎間板ヘルニアが発覚した時はびっくりしてあわててしまったけれど、今回はとくに感情は動かなかった。この数年、もう若くないんだなって実感はあったし、このところずっと体調はよくないし。はあそうですか、では一度どこかで診てもらっておきますと、淡々と話をきいて診察を終える。




二〇二三年五月三十日

 いつもよりすこし時間が早いだけなのに、きょうは電車が空いている。ゆったりすわる。高架からながめる街並みも、エアコンのつめたい匂いも、なんだか気持ちがいい。マスクをはずしているせいも、あるかもしれない。


 平日でも、新幹線はずいぶんにぎわうようになったんだなとおもう。脱日常を約束された特別席から、みなれた街がながれてゆく窓を眺める。西にむかうときはいつもそうであるように、乗ってすぐはとなりに人が座らないかそわそわして、新横浜を出て名古屋までの自由が確保されるとようやく一息ついて、お弁当を開ける。いつものお気に入りがみつからなくて、雰囲気の似たのをかわりに買った。食後に、一年前「紙片」の寺岡さんにもらったドラえもんのフーセンガムをあけてみる。ハズレ。なつかしいソーダの味がする。きょうは富士はみえない。



 車窓を水滴がにゅるにゅるにゅる、細長い玉になって流れて横切る。どこかでついた雨粒が、列車が切る風におされて飛ばされてゆく。つつつつつ。つうーっ。いま、まどの外は昼下がりのおだやかなあかるさに満ちている。走ってきた距離を、次々とばされてゆく水滴たちが伝えてくれる。





二〇二三年六月一日

 東へ戻る新幹線の中でふと、旅することに対してへんに夢をみなくなっている自分に気がつく。旅先でさびしくなることもなければ、去年の自分にはいつも心の片隅にあった、ここでないどこか遠くへ、なんて想いもそういえば消えてしまっている。どこか、自分の根をはりはじめているということなのかもしれない。わたしは、いまを大切にしながら生きたいと思い始めている。旅はこれからもしたい。けれど、なにかから逃れたり、ここにはない何かを求めてではなくて、いまをより豊かにするために出かけたい。




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