恋と夕暮れ

西の空がピンク色に染まる。夏のてっぺんを超えた空は、日没の時刻がだんだんと早くなっているとはいえ、午後6時半を超えてやっと夕暮れがやってくる。駅前に停めた自転車に跨って家へ帰る。いつも通りの帰り道。よれよれのYシャツが日中の熱を含んで温く体にまとわりつく。Ipodのシャッフルが銀杏BOYZの恋は永遠をかけてくれる。夏の夕暮れみたいな曲。そう、まさにちょうど今みたいな曲。口ずさみながら賑やかな商店街を抜けると、途端に静かな住宅街が広がる。迷路のように入り組んだその道を、いつも通りの手順で自転車を走らせる。夕暮れのまち、泣いたり笑ったり。
 いつもと違ったのは、古い小さなアパートの角を曲がった時。峯田和伸の伸びやかな歌声の間から、リズムの外れた高い声が聞こえてくる。イヤホンを外してみると、どうやら猫の声のようだ。どこかからミューミューと鳴いている。自転車を降りて、声のする方を探してみるとそれは簡単に見つかった。木の上で降りられなくなって困っている子猫がいた。木の上と言っても、自分の背より少し高いだけの所にいたので、手を伸ばしてすぐに助けてあげることができた。子猫はちょうど両手のひらに乗るくらいの大きさだった。木の上から自分の方へと抱き寄せると、僕の腕の中で大人しく収まっている。まるで、ここが最初から自分の居場所だったかのような顔をして僕の顔を見上げてくる。金色の目は好奇心で満ち溢れ、白とオレンジと黒のまだら模様の体は土埃でくすんでいた。頭を撫でると伝わってくる小さな頭の形とふわふわの毛の感触が僕をなんとも言えない気持ちにさせた。
 どれくらいそうしていただろうか。空はすっかり夜の顔をして、東の空に昇った満月が僕達を見ていた。そろそろ帰ろうと子猫を放してやり、別れを告げてまた自転車に跨がる。走りながらあの子猫は一体どこへ帰るのだろうと考えたが、自分には関係のない事だったので、そのことはすぐに忘れた。
 ワンルームのマンションは、一人暮らしの僕には十分な広さだった。部屋について、着ていたYシャツを洗濯カゴに放り込んで、湯船にお湯を貯める。そろそろ洗濯機を回さないと着るものがなくなりそうだ。シャワーで汗を流して湯船に体を沈める。筋肉がほぐれて疲れがお湯に溶け出す。目を閉じて今日のことを思い返すと、子猫の柔らかな感触や小さな重みの記憶を脳が勝手に引っ張り出してくる。呼吸に合わせて水面が静かに揺らめく。天井のライトが僕の顔を照らして、目を瞑っていても視界はぼんやりとオレンジ色に染まった。
 横断歩道の信号が青に変わるのを待っている。十字路の一角。僕はこの街を知らない。レンガ造りの建物が並んでいて、どこか外国の街のような感じがする。くすんだ水色のブルーバードが僕の前を通り過ぎて行く。僕はどうしてここにいるんだっけ?少し考えてすぐに思い出した。おばさんにお使いを頼まれていたんだった。だけど、今考えてみるとそのおばさんは特に知り合いでもなかったし、伝えられた目的地を思い出してもそれは全く知らない場所だった。それなのについさっきの僕は快くそのお使いを引き受けてしまっていたのだ。そうして僕はこの知らない街のよくわからない十字路で途方にくれている。
 3回ほど信号が赤から青に変わったところで、女の子に声をかけられた。
「どうしたの?渡らないの?」
18歳くらいだろうか。茶色の柔らかそうな髪が白いブラウスの胸のあたりでさらりと揺れている。僕の顔を覗きこんでくるその表情は、なぜだか懐かしい感じがした。
「実は道に迷ってしまって」
彼女に一連の事情を説明すると、目的地まで連れて行ってくれると言う。僕はその申し出にありがたく甘えることにして、彼女と並んで横断歩道を渡った。
 歩きながら彼女は色んなことを話してくれた。この街に住んでいること。両親とははぐれて暮らしていること。走るのが得意なこと。ピアノが弾けること。あまりロックは聴かないこと。だけどビートルズは聞くということ。僕の顔を見上げながら話すその姿に、相変わらず懐かしさを感じたが、その正体は結局わからなかった。そして僕はずっと、柔らかく揺れるその髪に触れたくて仕方がなかった。
「着いたよ」
あっけなく目的地に到着してしまったことに僕は心底悲しんだ。「この坂道を登ったところに赤い屋根の家があるでしょう?あそこよ」
僕はお礼を述べた後、一緒にいてすごく楽しかった事を伝えた。彼女は少し照れ臭そうにしていたけど優しく笑ってくれた。
「少しここで待っていてくれない?これを届けたあと、一緒にでかけよう」
そんな事は口が裂けても言えない。言えるわけがない。
「また、会えるかな?」
それが僕の勇気の限界だった。彼女は嬉しそうに僕の目をじっと見つめてから、一枚の金貨を僕の手に握らせた。ゲームセンターで使うメダルのようなものだった。
「綺麗でしょう?道で拾ったものなんだけど、綺麗だったから大切にしてずっと持っていたの。これ、あなたが持っていてくれない?次にあった時に、あなただってすぐに思い出せるように。」
そして、イタズラに笑って「忘れちゃったらごめんね」と付け加えた。
「忘れないでくれよ」と笑いながら僕は返事をし、じゃあ、また。と言って彼女と別れた。
 坂道を登りながら、僕はすぐについさっきのやりとりを後悔した。連絡先も何も聞いていないじゃないか。これじゃあ、一生会えないかもしれない。名前も知らない。facebookで調べる事だってできない。自分の情けなさに腹が立った。これを届けた後にすぐに追いかければ?まだそんなに遠くへは行っていないだろう。走って追いかければ見つかるかもしれない。頭は彼女のことでいっぱいだった。周りの景色もよくわからないし、ここのでの道のりだって全然覚えていない。彼女の好奇心に溢れた金色の瞳や、可愛らしい笑顔や透き通る声、柔らかな髪の事を思い出すと息が止まりそうだった。無意識のうちに僕は早足になっていた。目的の家につくとノックも忘れて玄関の扉を押し開けた。少し大きめの扉は体重をかけられてなめらかに開いた。するとそこには一面真っ暗な世界が広がっていた。一筋の光も入れない、世界がここで途切れているような真暗闇。ペンタブラックで塗りつぶしたかのような底のない黒。進んではいけないと直感したが、勢いよく扉を開けた右手と左足はもう止まらなかった。
 
 
 「落ちる」
 

 全身がビクッと跳ねて湯船のお湯がバシャリと大きな音を立てた。水しぶきが顔にかかる。あぁ。夢か。夢だ。大きく深呼吸して体勢を整えた。湯船の底にに何か光るものを見つけて拾ってみる。金貨だ。僕は急いでバスルームを飛び出すと、適当な部屋着で慌てて外へ出た。満月は空高く昇り、月面ではブランコが揺れている。自転車に跨って古いアパートの曲がり角を目指した。今ならまだ間に合うかもしれない。僕は彼女を追いかける。ポケットの中で金貨がくるくると踊った。

恋は永遠 / 銀杏BOYZ

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