・「内容の正しさ」と「バランスの正しさ」は同一ではない。「報道の考える「公平公正さ」が、真に「公平公正な情報」となっているとは限らない」

・総裁選の終わりが「内輪の利権調整」の終わりではない。続く「新内閣の組閣」

総裁選が終わり次に新内閣の組閣となったが、このまま衆院解散が10/14となれば、にわかに菅前総理辞任の噂が出始めた8月からの足掛け実に「2ヶ月近くの期間、報道は自民党で埋め尽くされる」ことになる。それに対して衆院選は10/19公示、10/31投開票であり、その間「衆院選に関する報道ができる時間」は実に「10日間ほど」の期間しかない。

もしこの「10日間」に与野党ともに「公平公正な報道」がされたとして、はたしてその「総情報量に対するバランス」が「公平公正」だと言えるだろうか。仮に解散、公示以降完全に公平公正な半々くらいの報道バランスが期待されたとしても、国民の脳内は「自民党の宣伝約65日分」と「野党の宣伝5日分」という、とんでもなく偏った情報バランスとなる。

65の判断材料があるものと5の判断材料しかないもの。これら二つのうちどちらがより吟味され、どちらがより「はっきりと現実味を帯びるか」ということの答えは明白である。「選択を行う」という時に、このような「判断材料」の提供のしかたは到底「公平公正である」とは言えないのではないか。

「ありのままをしっかりと報道する」というのは、一局面的に見れば正しい。しかしながらそれを報道することによって、たとえそれがマスコミ的に可能な限り尽くした「公平公正な報道」であっても、それが「社会にもたらす効果」が公正公平であるとは限らないのだ。

あくまでそれは「報道の内容が正しい」のであって、限りある時間の中で世に示さなければいけない「報道量のバランス」としての公平公正さを担保していない。

人々が判断をするための「情報量」というものには限りがあり、その限られた情報の中でしか判断できないのだから、報道はその「内容の正しさ」と同じくらいに、総情報量の中の「バランスの正しさ」にも注意を払わなければいけなかった。ところが結果は上記の通り「自民党の宣伝65、野党の宣伝5」というとんでもない偏り様の偏向報道となってしまった。

どんなに正確な情報を流したとしても、その「類別」が極端に偏ったものとなれば人々の判断もまた偏ったものとしかなり得ない。もし真に「公平公正な報道」を行おうと思うならば、報道の内容と同じくらいに、マスコミはその取り扱う情報の「バランス」に注意を払う必要がある。

すでにどうにもならないところまで来てしまったが、それでも報道は、重ね重ねだがその「報道の内容」と同じか、今となってはそれ以上にその「取り扱う情報のバランス」に十二分以上に着目してほしい。「公平公正さ」というものには非常に多くの面があり、少なくとも「65:5」という比率がまともなバランスであるとは到底いえない。ちなみに65:5と小さめに述べたが実際の差はそれどころではないだろう。

多くの人が承知しているはずだが、極端に偏った情報の蔓延は当然ながら偏った判断につながり、バランスの欠如は確実に崩壊をもたらす。報道はいい加減、国民に目隠しをしたまま崖に突っ込ませるような真似をやめるべきだ。このような状態は本当に「愚か」以外の何ものでもない。

・参考記事


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