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待つこと、送ること、帰るところがあることの幸せ

この春、娘が小学生になった。
僕はテレワークが中心なので、だいたい毎日、玄関でいってらっしゃい・おかえりなさいをいう。そのたびに幸せを感じる。

以前は全くわからなかった気持ちだ。

僕は中学から寮、大学からは一人暮らしをした。家を離れるたび、家に帰るたびに両親のどちらかは送り迎えをしてくれた。寮へはバスで1時間程度でいけるけれど、両親は車で送り迎えしてくれた。往復で2時間以上かかるのに。大学は新幹線で2時間程度の場所だった。そのたびに新幹線の駅まで送ってくれた。最初の方はホームまで来てくれていた。僕は恥ずかしかったのだけど、恥ずかしいというと両親を傷つけそうなので言えなかった。そのころ、両親が送り迎えをするのは、僕が頼りなくて心配だからだろうと思っていた。もちろんなにかトラブルに巻き込まれないか心配だからというのもあっただろう。でも今振り返ってみると親にとって送り迎えは幸せだったんじゃないかと思う。

大切な人がどこかに行くとき、その無事とお互いがいい日を過ごせることを祈る「いってらっしゃい」。大切な人が帰ってくるとき、お互いの無事を感謝する「おかえり」「ただいま」。成長するとか何かを成し遂げるとかではない。無事を祈り無事を感謝して変わらない日々を過ごすこと。そこにも幸せがある。

先日、ちょうど時間があったので、娘の帰りをベランダで待ってみることにした。ところが、いつも帰ってくる時間を10分過ぎても帰ってこない。まあ遊んでいるんじゃないかと考えつつ、待った。20分過ぎても帰ってこなかった。なにかトラブルに合ったのかと心配になり、通学路を探すことに決めた。マンションのエレベータをおりて、エントランスについたところで娘とあった。いつもと全く変わらない様子で娘は、パパ買い物いくの?と。よかった。彼女は、どんどん成長していく。一人で考えて判断していくようになるんだ。自分はそのじゃまにならないようにしていこう、適切に心配しながら。

帰る場所があることは幸せだ。帰ることを待ってくれる人がいること、誰かの帰りを待つことも。大事なのは、その関係に依存しすぎてはならず、それぞれの世界を持つことを認めながら、お互いを尊重しながら安心できる場所を共有することだ。独り立ちや死でいつかその関係は終わるけれど、続く限りは毎日その幸せに感謝しよう。

これからも、毎日のいってらっしゃい・おかえり・ただいまの幸せを大切にしよう。


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