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47才のキャンパスライフ 〜慶應一年生ミュージシャンの日々〜 45「神性としての単位」

 春学期も押し迫ってきたころ、学生の間でちょくちょく
「〇回休んだけど単位来たよ」
とか
「まあ多分単位は来るでしょ」
とかの言い回しを耳にした。

 また先生の方でも
「この出来でしたら、皆さん恐らく単位は来るでしょう」
とか
「最悪、単位は来ないかもしれません」
みたいな言い方をされていた。

 大学文化に慣れていない私としては、この言いまわしを聞くたびになんだか面白くなった。鴨がネギ背負ってじゃないけど、まるで単位に人格があって自律的に移動しているかのようである。または水晶玉を前にした占い師が固く目を閉じて

「うむむむ…単位は…来ます!」

と言っているみたいな、神がかり的なイメージがある。

 なぜこのような言い方をするのか、少し検索してみたけど僕の力では答えが見つからなかったので、最近親しくしているAI(Perplexity)にきいてみたところ、こんな答えが返ってきました。

擬人化
「単位が来る」という表現は、単位を擬人化することで、学生にとっての単位取得が一種の運やタイミングに依存することを示唆しています。これは単位取得が必ずしも学生の努力だけで決まるわけではなく、試験の難易度や教授の採点基準など、他の要因も関係していることを反映しています。

AIサービス perplexityの答え

 ふむふむ。確かに教授の採点基準は、学生からするとちょいブラックボックスではあるかも。

学生と教授の関係性
大学では、教授と学生の関係が中学校や高校とは異なり、より形式的で距離がある場合が多いです。教授が学生一人一人を細かく把握することは難しく、評価も公平に行われるべきです。そのため、単位取得が学生の直接的な行動だけでなく、教授の評価や授業の進行状況に依存することが強調され、「単位が来る」という表現が使われることになります

AIサービス perplexityの答え

 なるほどなるほど。確かに大人数の授業だと、学生一人一人の行動を詳しく考慮する事は難しいから、公平性のために画一的な評価基準にならざるを得なく、そこにどれだけ合致するかは運もあるかも。

 なるほど、学生側の理由はなんとなく理解できたけど、教授側からはどうなんですか? と思い、またAIに聞いてみました。

評価の客観性の表現:
教授が学生とのコミュニケーションを円滑にするため、学生の間で広く使われている表現を採用することがあります。また「単位を与える」という直接的な表現を避けることで、教授個人の判断だけでなく、大学のシステムや客観的な基準に基づいて単位が付与されることを暗に示すことができます。これは、公平性を重視する大学教育の姿勢とも一致します。

AIサービス perplexityの答え

 なるほどなるほど。先生が単位をあげたいとしても、大学のシステムや基準が許してくれるとは限らないから、という事なんですね。なんかすごくわかった!

 しかしそうなると「単位」というやつは、学生からも教授からも自由にならない、いわば「神性」的不可侵性を帯びている雰囲気になりますね。占い師のイメージはあながち的外れではなかったわけだ。

 言われてみれば確かに努力だけでは難しい事は、目的語が主語になる例が他にもあります。「夢が叶う」とか「子供が出来る」とか。それぞれに色々なタイミングや複雑な要素がある。

 そういえば「曲が出来る」とも言いますね! なんだ、なかなか良い曲ができなくても僕の所為だけではなかったわけだ。わはははは…と気が軽くなったところで何が変わるわけでもないので、やはり人事を尽くして天命を待つという姿勢が大事ですね。ポジティブに

「単位が…クルぅーー!」

「名曲が…デキルぅーー!」

 
 と信じていようと思います。それではまた!


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