わたしの美しき人生論 第二章1話「愛をめぐる騒乱」
第二章
<寝室にて>
曇り空が一瞬の晴れ間を見せ、窓から降り注ぐ太陽の光に、ユハは思わず眉をしかめた。カレンダーが示す12月の領域を越え、世界は初夏の新鮮な陽気に包まれていた。
これも、すべて豊穣の女神たる私が……
彼女はゆっくりと瞳を開き、自らが再びこの悪夢のような世界に足を踏み入れたことを認め、鬱々とした心持ちに囚われた。
「何か夢を見ていたような……」
彼女はぼんやりと思い返すものの、夢の内容は曖昧で、ただ懐かしさに涙がにじむような心地だけが残った。
「ユハさま」
と、赤髪のメイドが扉をたたくことなく部屋に入り、ユハに水と白い錠剤を差し出した。
「今朝、市場で栄養剤を調達してまいりました。これで少しはお体も楽になるでしょう」
しかしユハは、その錠剤を一瞥すると窓の外に投げ捨てた。
「放っておいてって言ったでしょう」
「いつまで子供のままでいらっしゃるのですか」
窓外をぼんやり眺めていたユハは、思わず振り返ってニッキを見た。ニッキがとうとう自分に愛想を尽かしたのかと不安がよぎった。
この部屋を掃除し、毎日料理を作って運んでくるニッキが、お暇などしてしまえば、ユハはいつまでもこのように籠城できなくなる。
「……あたしは子供みたいに不貞腐れてここにいるわけじゃないの。あたしが外に出て、男と目が合ったり触れたりしただけで、みんな倒れ込んだり病気になる。それで、あたしばっかり責められて、おまえが女神だからだとかなんとか言われるの。だからあたしは外に出ない。あたしは何も悪くないから」
「ええ。神に良いも悪いもありませんわ。神は神です」
「あたしは神じゃない!」
ユハは声を荒らげた。
「どうしてみんなそんな嘘を言うの。あたしは神じゃない、普通の人間で……」
「そうなのですか?」
やめて、ニッキ。
その目で見ないで。ニッキの目が怖いの。
その、すべてを見透かすかのような黒黒とした大きな目……
「では、あなたさまは誰なのですか? ユハという名もネイヴが適当につけた名。そしてあなたさまは、私がこの部屋に来たときには、すでにこのベッドの上で眠りにつかれておりました。あなたの本当の名は? ここに来るまでどこにいましたか? 家族はどこですか? どこでお生まれになり、どこの学校へ行き、今おいくつなのですか? それがわからないのに、自分が普通の人間だなんて、なぜ言えるのですか?」
「……」
「慰みになるかわかりませんけれど、」とニッキはベッドに腰掛け、ユハの目をじっと見つめる。
「わたしも同じような実存の不安があるのです。わたしもわたしが誰なのか、何のためにこの部屋に、いつからいたのか、まるで記憶が抜け落ちたように何も覚えておりませんの。ですからわたしも、ネイヴにニッキと呼ばれて、おまえはメイドだと言われて、そう認識しているにすぎませんの」「じゃあニッキ、あんたがアンドロイドだって話は?」
「それもネイヴが言ったことですわ。だって、わたしにも月経が来るんですもの。それに、包丁で指を切ったり、縫い物の針が指に刺さると痛みを感じますわ。きっと私は、人間なんです。でもそれが一体何だというのでしょう? もしかしたら、痛みを感じるよう設定されたロボットかもしれません」
「そんなの……誰にだって言えることでしょう」
「ですが、わたくしは自分がロボットだと思うほうが幸せですの。人間って本当に疲れる生活をしてるようですから」
「そんなの……」
悲しい、と言いかけて、ユハは黙りこくった。正午の陽だまりのなかで、すべてがぼんやりとした夢の中のように感じる。
「ネイヴは全て知ってるの?」
「あの酒びたりの人魚は、一体何を考えているのでしょうね」
「ネイヴはどこ? すべて知っているのはあいつだけなんだ」
「ネイヴは教区長さまから辞令をもらって、学校の運営に携わることになったそうですわ。彼は元々、教会で医師をしていて、町の療養所より大きな病院で患者をたくさん持っていたそうですの。酔うとそんな話をしていましたわ、たしか」
「病院?でも、あの教会のそばにはそんなもの見当たらなかったよ」
「それは千年前の話だそうですわ……まだ教会はなく、貧しい人々と小さな土地を持った王家だけの小さな国だったこの町に、ひとりの女神が御下生されたそうです。ネイヴと女神は愛し合い、ネイヴには人知を超える魔力を持つものになりました。そこから瞬く間に土地は恵まれ、子どもたちは立派な兵隊となり、今では帝国は星を統一した、この地はこの星で最も大きな貿易港を構える城下街となった……この街と国の歴史は、ネイヴと女神が愛し合いもたらされた豊穣の産物なのです」
「それをなぜ知ってるの?ネイヴが言ったの?」
「いいえ、私、士官学校の図書室に行きましたの……歴史の本を借りたのです。あなたさまが目覚めるまで何十幾季か、本当に退屈でしたから」
「あたしも行く!そこに行けば、きっとなにかわかる」
ユハはすぐさま立ち上がると、ネグリジェを脱いでニッキが繕った外行きのワンピースを着た。
「でもユハさま……今、お外に出られるのは……」
「あたしを見て誰が倒れようがなんだろうが知らない。 もうこれ以上、ここがどこだかわかんないことが嫌なの。どうしてあたしだけこんな嫌な思いをするの? ネイヴに問いただして、あたしが一体どこからきたのか聞かなきゃ。ねえニッキ、あの貞操帯は?」
「洗って磨いておきましたわ。衣装櫃の中に入れておりますわ」
「襲われたらアレが血まみれになるように、中に刃物を仕込めないかな?」
ユハは思わずふふ、と笑い出した。二週間も部屋にこもりっぱなしだったので、外に出ると一度決心してしまえば心が少し楽になった気がした。
「どうにかつくろってみますわ。図書館は……保健室のそばにありますの。地図が学校のどこかにありますし、なければ教会の宦官か警邏に訊ねてみたらよいですわ」
「怖い?……あたしが外に出て、また悲惨なことが起きたりすること」
「いいえ。何事も行動から始まりますもの。指を動かさなければ本のページはめくられませんわ」
「ニッキも学校へ来たらどう?」
「いけません」
「どうして?」
ニッキの顔がさっと暗くなった。といっても、彼女の表情は相変わらず微妙にしか変化しない。
「町の人々は私がおそろしいのです。なぜだかはわかりませんけれど……だから図書館には夜中こっそり入っていきますの。彼らは私を見つけると排除しようとしますから」
<音楽室の宝石>
音楽室の扉がギギ、と音を立てて開かれると、シャペイ辺境伯の嫡男モーラ・シャペイは、ピアノの鍵盤の上に置かれた細く小さな手をピタリと止めて扉の方へ振り返った。
「プロヴィス……」
モーラの瞳は生まれながらにして深い藍色で、いつも涙に潤んでおり、それ故に彼は常に庇護を求める存在であり、また時として意地悪な者たちの標的となっていた。
モーラの幼馴染であるユリエルスベルク公爵家のプロヴィス・ユリエルスベルクは、その白銀の髪を優雅にかき上げながら、輝くペリドットの耳飾りを見せびらかした。
モーラは心から嬉しそうに微笑みを浮かべながら手を口に当てた。
「ようやくそれを着ける日が来たんだね……」
「くだらない伝承だ」
「ボクね……女神様が目覚めたときにはもう、宝石箱を漁ってたよ」
「結局、そのガーネットのネックレスか?」
プロヴィスは鼻をならした。帝国の、殊に貴族の男子たちは、女神と結ばれるようにと両親から愛の宝石を送られる習わしがあった。実際にかなり信心深い者以外はつけないことも多いのだが、二人は女神が本当に現れたときはお互いにその宝石を身に着けようと幼い頃に約束したのだ。
モーラは照れくさそうに首元の襟からネックレスを取り出し、
「これはお母様の形見なんだ。もしお母様がまだ生きていらっしゃったら、これを僕に着けてくれただろうから……」と語った。
プロヴィスは黙然としていたが、突如として腕を組み、何か深い思索に耽っているようだった。
「プロヴィス、何しに来たの? もうピアノはやめたんでしょう?」
モーラが尋ねると、
「お前の下手な演奏が聞こえたからだ」と、冷たく返した。
その言葉にモーラは明らかに傷つき、表情に痛みを隠せなかった。プロヴィスは内心少し焦ったが、なにか言おうとする前に、モーラがぽおっと頬を赤らめながら、
「二週間……あれから二週間が経つんだね」とモーラは言った。
プロヴィスは、
「ああ、女神が我々の学校に降臨してからな」
「僕は背が低くて、他のみんなみたいに姿は見れなかった。けど、」
モーラは興奮した様子で語気を強めた。藍色の大きな瞳をきらきらと首元の宝石よりも美しく輝かせる姿は、初恋も知らぬ穢れなき乙女のように可憐だった。
「けど、それなのに僕、高級魔法にかかったみたいにめまいがして倒れちゃったんだ。女神様は神話通り、偉大なお力があるんだよ。忘れられない」
プロヴィスは眉をひそめ、
「だけど、それから何が起きた?何もないじゃないか。教区長も、何事もなかったかのようにいつもの説法を続けている。おかしいだろう、神が現れたというのに……」
「そうだね……でも、神様が何かを行うのは、僕たち人間の想像とは異なるかもしれない」
モーラは困ったように頭をかいた。
「だとしたら、」とプロヴィスは語気を強めた。モーラは思わずびくっとした。
「どうやって我々は女神と婚儀を挙げるんだ? 誰かが仲人になって御膳だてするのか? それこそ普通の人間のやることじゃないか」
「……うん……たしかに、まみえることもできないのに求婚なんて……どこにいるかも知れないのに……」
「いいや」
プロヴィスはくるりと踵を返し、モーラに背を向けた。モーラは不安げに少し彼の方に腕を伸ばした。
「どこにいるかはわかってる」
「え?」
「使われていない古い寄宿舎の使用人部屋に隠れている。ネイヴが最近まで住んでいたあの部屋だ」
「あの薄暗い寄宿舎に。嘘でしょ? 立派な宮殿があるのに」と驚いて反駁したが、
「教区長も、教師たちも、ネイヴも、みんなそれを隠そうとしている。しかし、噂は広まっている。皇子はあそこで女神に謁見した。この学校の平和が崩れるのも時間の問題だ」
プロヴィスは去ろうとする際、
「気をつけろ。北の魔法使いがこの街にやってくるという話だ。みんな女神のために千年間待ち続けた……誰が女神を娶り、天上天下の支配者になるか……激しい争いになるだろう。こんな宝石は気休めにしかならない」
プロヴィスの足音が遠ざかっていった。モーラは小さく「ああ、お母様……」と青白い顔でつぶやいた。
<朝の三室>
士官学校の朝の大食堂は、いつにもまして騒々しかった。
皇子エイベルの従者、ブルート・へイルデインは、その黒く鋭い眼でトマトスープを一すくいして、じっと観察している。数分が経過しても、彼の慎重な視線は微動だにしなかった。
隣に座っていた双子の片割れ、キリーヌ・リリエンタールが軽蔑を込めて「なに、こいつ?」と隣のレーム・リリエンタールに問いかけた。
「毒が入っていないか確認してるんだってえ」とレームが答えると、キリーヌは嘲笑した。
「バカだな、ホント。頭が悪いって罪だよね」
ブルートは怒りを抑えきれず、「うるさい、金の亡者ども!」と怒鳴るやいなや、スープをテーブルから投げ捨てた。
エイベルは苦笑いを浮かべながら、「もうやめてくれ、ブルート。もし鍋に毒が入っていたら、他のみんなが先に影響を受けているだろう?」と静めた。
「はあ、それはそうですが……」ブルートは一瞬で乱れた髪や服の裾を直し、
「しかし、最近不穏な事が多いと聞きますので」と言った。
「不穏?」
双子が心底意地悪そうな顔で会話に入ってきた。
「あいつらのことでしょ?『目病みのエレ』に『気狂い』ルミッキ!まだ生きていたなんてね」とキリーヌが口にすると、レームが続けた。
「あいつらも名声と栄誉には勝てないさ。狂人のふりしても、腰は振ることができるんだからね」
エイベルは双子の枉惑な言葉に一瞬不快感を顕にしたが、すぐに落ち着いた表情に戻り、
「ふたりとも、人のことをあまり悪く言うものではないよ」と穏やかな口調でたしなめた。
「おお、お食事中の無礼、心より陳謝いたします、高貴なる未来の王よ」
キレーヌが舞台役者よろしく大げさに頭を垂れており屈むと、隣のレームはケタケタと大声で笑った。
「貴様ら、皇家に向かっていつまでふざけたまねを……」
ブルートが怒気に震え、立ち上がろうとしたが、エイベルがすぐに諌めた。
「誰だって千年ぶりの春には、外に出たくなるんだろう……エレもルミッキも……今季からはこの学校に馴染めたらいいが」
エイベルはエレとルミッキのほうを見やった。
「目病みのエレ」はいつも包帯と眼帯のヴェールに身を包んでいて、無傷なときを見た者はいない。右手はぎこちなく、何とかしてスプーンを握りしめてスープをすくったまま、じっと虚空を見つめ、遠い思索に沈んでいるようだった。
狂人と謳われるルミッキは、朝の食事を摂ることもなく、中庭で花を摘んでいた。彼は薔薇のような豪奢な花々ではなく、たんぽぽやホトケノザなどの素朴な花々を幼子のような無垢な真剣さで一つ一つ点検しながら摘んでいた。
女神への捧げ物だろうか……。
エイベルはそんなことを考えた。
「哀れんでる?」
キレーヌが前のめりになって、皇子の顔を覗き込んだ。その翠色の瞳は、他人を支配する冷酷無比で暴力的な力を秘めていた。キレーヌとレームがいる場所では、みな萎縮して彼らに目をつけられないように注意深く動かねばならなかった。彼らは自分たちの利益のためなら、ためらいなく人を欺き、痛めつけることになんの抵抗もないのだ。
「皇子はいつだって哀れむ側の存在だもんね」
皇子の顔をがっしりと掴んだ。それには周囲も驚いて小さな声を漏らすほどだった。
「知ってるんだろ? 女神があの埃っぽい使用人部屋にいること。抜け駆けして、女神から誰よりも早く力を授かったんだろ?……帝国の未来の君主は、神なんて恐ろしくもなんともないのかなあ、ねえ、エイベル皇子……」
キリーヌの恐ろしいばかりに整った顔がエイベルに近づき、彼の吐息を自直に感じながら、エイベルはテーブルの下でぎゅっと拳を握りしめた。
そしてゆっくり目を閉じた。
帰りたい……
こんなところにいたくない……
あたたかい我が家に帰って……
大好きな本を読んで……
そうして乳母さまの子守唄を聞きながら‥…
夢の世界へ旅立ちたい……
意地悪な同級生も、媚びへつらう大人たちも……
ぼくの死を願う親戚もいない……
ただ僕と女神様だけの夢の世界へ……
エイベルが目をつむって甘美な現実逃避をしているうちに、いつの間にかブルートがキレーヌを殴り、キレーヌはキンキンと頭が痛くなるような声で叫びながら、テーブル中の料理をひっくり返していた。同じテーブルに座っていた生徒たちは、揉め事に関わらぬうちに逃げるようにひとり、またひとりと去っていった。エイベルがエレのほうをちらと見ると、エレはまだスープの皿をじっと覗き込みながら、いつまでも黙って座っていた。ルミッキの姿はすでにどこにもなかった。
賽は投げられた。
女神の愛をめぐる争乱の日々が幕を切って落とされたのである。