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雪国の太陽光発電

圃場(田畑)の多様性を大切にして、そのお陰で百姓を続けられている。だから、自分とは異なる考え方の人に対しても、なるべく許容したいと思っています。普段えらそーに多様性を謳っているのに、他人の考えを認めない、人間の多様性は否定しちゃう、ソレは恰好悪いと思っています。

自分の方が正しい、自分色に染めたい、と押しつけちゃうから圃場はバランスを崩し作物はやる気をなくします。これまで骨身に沁みて、経験してきた。自己満足の為に相手を変えようとしちゃダメ。きっと人に対してもおなじ。

かと言って、生来の偏屈者なので、誰に対してもニコニコとはできない。それができていれば、そもそも百姓になどなっていない。だから『人は人、自分は自分』のスタンスで生きていたいと思っている。コレ、結構むずかしい。でも、究極的にはソレしかないと思っている。みんな自分は正しいで良いと思う。そのなかでお互いに歩み寄れる折衷案を探って行けばいいと思っている。でも、やっぱり結構、むずかしい。

太陽光発電

持続可能な社会に向けて社会全体がカーボンフリーのエネルギーを求めています。そのひとつの解決策として、太陽光発電がある。ただ、僕は太陽光発電に対して、あまり良い印象を持っていない。現代科学の粋を集めて、資本を投入してreturnを得る設備。使用期限が切れたら大量の困ったちゃんのゴミが出ちゃう設備。そもそも見た目が美しくない。個人的な感覚の話『美しいと感じないモノは、よろしくない』に合致している。お金の匂いがプンプンしちゃう。多分、太陽光発電が嫌いなのではなくて、太陽光発電がビジネスになっている事が嫌いなんです。免罪符みたいだから

それでも太陽光発電に未来を感じ正しい選択だと思っている人はたくさんいます。それはそれで勿論良いし必要なんだと思う。緩やかな変化の過程として、太陽光発電を捉えているスマートな人達もたくさんいるはずです。ただ僕は単純だからフェンスに囲まれた空き地に林立する太陽光発電パネルを横目で見ながら『これが未来のエネルギーなのか?』と釈然としないまま通り過ぎています。太陽のエネルギーを効率よく変換するのは、植物がいちばん得意なんじゃないか?と思っています。変換し蓄積し還元する。植物は、無理なんかしていないし、循環してる。偉いなあ。

雪国

僕の住んでいる黒姫山麓は、結構な豪雪地帯です。北から流れ込んだ寒気の塊が、妙高山や黒姫山に当たってボトリと雪を落とします。ただ、今年は異常に暖かくて、現在20㎝くらいしか積もっていないです。(小寒から大寒に向かう時期なのに、雨降っています。なんなんこの天候?)今後は、これまでの気象サイクルを標準と考える意味がないのかも知れません。
ただ、それだと話の流れ上、都合が悪いので1mから2mは平気で雪が積もる所だ、と言い切って進めます。

強引に進めた割に話は脱線するけれど、この村に引っ越してきた当初は、長い冬が本当に憂鬱でした。一年の半分が冬みたいな所。6月、これから暑くなるハズの夏至が来るのがとても嫌でした。その日を境に太陽が少しずつ遠くなって行くのが本当に切なかったです。でもね。この豪雪が良い土を育ててくれます。冬の間、圃場に積もった数mの雪が環境を安定させ、土をゆっくりと休め、育みます。年間を通して低い気温は、有機物の分解速度を穏やかにして、未分解の栄養を少しずつ翌年へ繰越します。その積算が有機質に富んだ良い土を育てます。正邪陰陽は、おなじものの別のかたち。

雪国×太陽光発電

標高700mの我が家から山裾の町道を登ってゆくと泉質が微妙な温泉があります。(そんな悪口みたいな注釈要らんから、本当に性格わるいなあ)露天風呂の湯温が低めに設定されていて、熱いお湯が嫌いな息子達には好評なので、時々一緒に入りに行きます。(最初から褒めておけや!)昨年、その道中にある森が切り拓かれて、太陽光発電パネルが敷き詰められました。唖然、あんぐりです。『これは~...』です。

最初にも書きましたが、多様性は大切です。おなじように人の精神や考え方にも多様性がなくてはいけないと思っています。太陽光発電、僕とは相性が良くないけれど、相性が良い人や必要だと考える人が居ても良いと思っています。おなじものを見ても感じ方や捉え方は、人それぞれで良いハズです。でも、流石に、これは~、と思いました。

森のなかにあるパネル、雪が積もってる

森を切り拓いて凹凸のある山肌にパネルを建てている。一応、南を向いてはいるけれど、どう考えても日照効率は良くない。だって、周囲は山と森だもの。こんな場所では、僕は野菜を育てたくない。だって、陽当たらないもの。それにココは雨が多いよ~、雪も降るよ~。年間を通して、晴天率はかなり低いよ~。だって山の中だもん。

野菜を育てるには天水(雨)が必要です。天からの恵みです。山に降り積もった雪は、天然の貯水ダムになって、春から夏まで田んぼに水を供給してくれます。天からの贈り物です。ありがたや~です。でも、太陽光発電には、雨も雪も要らないよね。

田を潤す山からの水

その上、この施設の絶望的な事がパネルを支える骨組みが細い。多分標準地仕様なんじゃないかな。この施設の管理者や施主、施工主は、この辺りの気候を判っているのか?どう考えても無理じゃん、と思っていました。そして、案の定、クリスマスに降った雪(別にたくさん降った訳じゃありません。)でパネルは曲がり、支柱は折れていました。...サンタからのプレゼントなのか?施工後、一年しか経っていません。今年は異常に雪が少ない年なんですけれど...この先、どうするの?

たとえ矛盾のなかで生きるにしても

太陽光発電が持続可能な未来を作るツールだと信じていても構いません。本当にそうなるかも知れません。でもさ、森を切り拓いて、ワザワザ日照効率の悪い所に建てなくても良くないか?簡単にバキバキ壊れちゃうモノを建てなくても良くないか?これで未来の為にがんばってると思っているなら、それは違う。これで金銭的にペイしちゃうなら、それは制度自体に問題がある。馬鹿でもわかる。僕でもわかる。何をめざしているのか、何処を目指しているのかがわからない。

僕は人間の存在は、他の生命にとって脅威でしかないと思っています。でも、だからと言って死にたくはありません。息子達にも、この先も幸せで安心して生きていて欲しいと願っています。この社会が、矛盾の上に成り立っている事は理解しています。その矛盾のお陰で僕も生きている事も理解しています。ワガママで自分勝手な生き物が自分だと知っています。だから矛盾のなかで矛盾を抱えて生きる為に、(自分を)納得させる為に、言い訳を得る為に、自然を利用する百姓になりました。ズルい人間です。人にあーだこーだ言えるような人間ではありません。

でも、せめて、他の命に迷惑をかけながらでしか生きられない存在だとしても、どう考えてもおかしい事は止めようよ。未来の為のツールと言うなら未来のある使い方をしようよ。少なくとも太陽光発電は、あんな処に作るべきではない。

人が万物の霊長だと言い張るなら、その賢い頭で、今現在のある技術のなかで、最小限の被害から最大限の益を得る方法くらいは判るだろ?その為に学校に行って勉強をしてきたんじゃないのか? 持続可能な、とか、未来のため とかを商売の道具にすんな、人の善意を利用すんな、笑いながら矛盾を語るな。それじゃあ、何処にも繋がらない。

新しい技術や知識を世間に広める為には、社会活動≒経済活動に組み込む事がいちばんの近道だとわかっています。利益が上がるからこそ、たくさんの知恵が集まり技術革新や普及速度も早まります。わかってる、わかっているけれど、なんか釈然としない。イメージだけが先行して、現実の諸問題が置き去りにされているように感じてしまう。例えば、雪国の太陽光発電みたいに

正邪や陰陽は、おなじものの別のかたちだから使い方を誤れば、薬も毒になります。最終的に、なにを目指しているのか?何処に向かいたいのか?その為には、どこまでの矛盾を許容すべきなのか?ちゃんと考えてから歩きだそうよ。

写真を撮りに向かう道中、別の森が切り拓かれていました。意味あんのかな?







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