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うつを経験して決定論を免罪符にすることを覚えた

この記事は、私の自律神経失調症を発症した原因とその後の生活の話と、そこから決定論っぽいことに考えが帰着した話です。「闘病日記」みたいな趣旨ではないので具体的な経験は書いていません。医学にも哲学に詳しくないので、個人の戯言としてお読みください。(noteなんてそんなものか)

私は約2年前の6月(当時高校3年生)に自律神経失調症と診断された。明らかに異常な気分の落ち込みと身体的不調により学校を欠席した日、健療院というところで診察を受けた。元々HSPによる生きずらさやマイノリティなジェンダーによる生きずらさを感じていた私は、それらのストレスなどによる心の問題だと疑わなかった。しかし、診察結果は身体的異常に基づいたもので、私の場合は目の瞳孔が光を受けたときに正常に機能せず、光の刺激により交感神経が過剰に分泌され、逆に副交感神経を分泌する機能がやられていることが主な原因だと分かった。その自律神経の乱れにより、身体的不調やうつ症状が引き起こされているとのこと。もちろん先述したHSPなどの要因もうつ症状を助長していると考えられるが、あくまで

身体的異常→身体的不調+精神的不調

の順番で起因しているのだという。(私の場合)
精神的不調は「やる気のなさ」と紙一重にされてしまうことがあるが、その裏にはれっきとした身体的な異常があり、やる気を出して解決するものとは訳が違う。例えるなら、うつ症状があってどうしても仕事に行く気になれない人に「ズル休みするな!」と怒声を響かせる人は、足を骨折して走れない人に、体育のランニングを「ズル休みするな!」と言っているのと同じ理屈である。この考え方を手に入れたおかげで、うつ症状との向き合い方がほんの少し確立されたような気がする。

自律神経失調症と診断されてからアルバイトと塾を辞めた。アルバイトはともかく、いわゆる受験シーズン真っ只中に塾は辞めるし、もちろん思うように受験勉強は出来ないし、そもそも学校にも週2、3日行けて御の字の生活を強いられていた。出席日数や大学進学に対する懸念、周りへの申し訳なさ、無力な自分への嫌悪が渦を巻く混沌を生きていたが、「ちゃんと病気を患っている身であること」「身体が動かないのにはどうしようも出来ない理由があること」を自覚しているときは少し楽だったと思う。

この思考回路はどうも決定論みたいで、最近は、うつ症状のケースだけでなくても決定論を"出来ない自分"への免罪符にするのはアリだと思っている。

決定論(けっていろん、: determinism、: determinare)とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする哲学的な立場。

Wikipedia

出来ないこと=出来ないと決まっていることだからどうしようもないね、ということである。良く言うと「自分を許す」、悪く言うと「開き直る」と表現できるだろうか。ただし、この免罪符は一時的にしか効果を持たない。なぜなら、上のWikipediaの引用にもある「その出来事に先行する出来事」は、意識の持ち方や習慣の作り方で徐々に改善することができるからである。「それが出来るか出来ないかも決定論では?」と反論が聞こえるが、その通りである。所詮人間はその程度である。だから、出来ない自分をその瞬間で非難し無理やり動かそうとするのはやめて、自分の出来る範囲の作戦で、少しずつ自分の出来る範囲を広げようということである。


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