時間とカネ

―「時は金なり」―

昔からあることわざであり、現代において、より一層この言葉の意味を噛みしめる人も多いのではないだろうか。私はこの言葉を、時間はお金と同じように非常に貴重なものなので、無駄に浪費してしまうことなく、できる限り有意義に使いましょうといった意味合いの言葉であると解釈している。では、時は金になりうるのか。まずは、両者それぞれについて、その特徴を考えてみる。
時、つまり時間は、いつ始まったかもわからないような概念的数値であり、一定の早さで常に進み続ける無限の事象である。一般に地球の自転を約24時間、公転を約365日として規定されるが、時に体感時間といったように、人によって異なる感じ方をする。一定の基準がありながらその数値が定まらない価値を持つことを、ここでは概念的数値と表現する。
一方、金についても概念的数値と言えるだろう。ただの丸い金属や上質な紙に価値を見出し、皆が同じ基準で物々交換を可能にしたものが金である。硬貨や紙幣は、それ自体はただの丸い金属や上質な紙であり、これは先ほどの時間でいうところの地球の自転や公転と同質の一定の基準である。1円と呼ばれるアルミ製の丸い金属の円盤10,000枚と、1万円と呼ばれる上質な紙切れ1枚が同じ価値という基準は一定に存在するが、1円の価値は、その時代や場面によっても変動するため、その価値は無限の可能性を持っており、その数値は概念的と言えるだろう。以降ではその意味を簡潔に伝えるため、硬貨や紙幣のことを指す場合に「金」、概念的数値として取り扱う際には「カネ」と表記する。
前述の通り、両者の共通点として、どちらも無限に広がる概念的数値であることが言えるだろう。ここで、両者を概念的数値たらしめる要因について考える。一つの答えとして、それは「人」である。時間もカネも人が扱った際には、その数値は概念的となるのである。人は楽しいときに時間を早く感じ、退屈な時や苦しい時には時間を遅く感じる。また、1000円入っている財布から100円玉を取り出すのと、100万円入っている口座から手数料として100円引かれるのでは感じ方も違うだろう。このように、人にとっての時間、人にとってのカネは、一定の基準を乱す価値を見出すのである。
だが、「人」が取り扱った際、時とカネは無限のままだろうか。人一人においた場合について考えてみよう。ここで言う「時」は、その人の時間であり、人生である。その人が生きていようが死んでいようが、「時」は流れるが、その人にとっての時間となった瞬間にその「時」は概ね80年、最長でも122年という有限な数値となるのだ。一方、「カネ」についてはどうだろう。もちろん、日本人のサラリーマンは平均2億円程度を生涯で稼ぎ、ジョフ・ヘゾスのようにAmazonを創れば19兆円まで稼ぐことができるが、その人がいくらまで所持できるかなど断言するのは難しいだろう。その点、人にとっての「カネ」は無限のままである。時とカネは、人によって異質のものとなるのだ。
ここで人にとってのカネについてひも解いてみる。人が作った社会においては、金を得るには労働という対価を支払う。ただし、この労働の仕方や種類は多岐にわたり、常に変化し続けている。この労働という条件においては、金は時間の関数と言える。それを一般的に表すのが下の式である。
時間(t)×賃金 (m/t)=金(m)
 t:時間(time)を示す意 m:金(money)を示す意
つまり、時間が無ければ何事においても金を稼ぐことができないのである。これは概念的数値に置き換えても同じことである。その際、歩合制や何かを成しえることで得られる金も存在することを踏まえ、「賃金」ではなく、その人が金を稼ぐことができる能力のことをひとえに「生産性」とすると、以下の式となる。
時間(t)×生産性(m/t)=カネ(m)
人にとってのカネは、人にとっての時間、そして人の能力・才能・努力によって決定する生産性に依存する数値である。つまり、人によって時はカネになりうるのだ。この関係は、はるか昔から存在する時間という概念をもとに、人がカネを結びつける労働を作ったとも言えるだろう。
 時間は有限であり、生産性も、何もしなければ生まれつきの能力のままで、有限である。カネという無限の事象を増幅させるには、時間や生産性を増加させる必要がある。生産性をそのままに、時間つまり人生をかけることは、言い換えれば生まれつきの能力のみで得られる生涯財産である。ただし、人は成長する生き物である。生産性を伸ばすことが、カネを大きくすることにつながる。この生産性とは、野球選手で言えばホームランを打ったり、速い球を投げる能力であり、弁護士で言えば法律の知識や弁論力である。つまり生産性を上げるということは、野球の練習や法律の勉強に当てはまり、これらの行為対しても時間を消費する。そのため、全体利益であるカネを増加させるためには、短時間そして人生の早い段階で生産性を増加させ、高い生産性で長い時間を過ごすことが重要ある。つまり、若い時代の時間を使って、その能力を少しでも伸ばせば、その後の多大な利益となる可能性を秘めていることは明らかであり、無駄するのはもったいなく、まさに「時はカネなり」である。
現代においては金によって得られるものにはさまざまな形があり、多くの幸せがある。結婚し、家族に恵まれ、子供が大きくなり、旅行やおいしいものを食べるといった思い出を作るなど、金によって得られる恩恵は多大である。人によって価値基準はさまざまであるが、こうした幸せを、比較するうえでの一定の基準であり、その価値は人によって異なるという点では幸せの概念的数値としてのカネも存在するのではないか。将来的な幸せを得るために、若いころの時間を無駄にしないで生きていくべきだろう。時間は有限なのだから、残り少なくなってきてからでは、やりたいこともできない可能性がある。近い将来なりたい自分になるために、遠い未来で残り少ない時間を有意義に過ごしていくために、今何をすべきかを考える時間はまったく無駄ではないだろう。
時間とカネ、どっちを大切にしていくべきなのか。その答えは明白ではないだろうか。だって、時はカネなりだが、カネは時にはなれないのだから。

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