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湯屋日記

プロローグ


 小生は湯屋(銭湯)が大好きである。そして、近年のスーパー銭湯は大嫌いである。理由は簡単、なんか臭いのだ。昔、温泉場にはアンモニア計なるものがあり、湯の管理を慎重に行っていた。風呂好きの人が一番湯に入るのも、アンモニア臭く無いうちに湯に浸かりリラックスしたのである。
 話は変わるが、小生は現在、名古屋に居住している。大学から東京に生活の拠点を移し、60歳になるまで過ごした。仕事も落ち着き生まれ故郷の名古屋に戻ってきた。
 東京時代の湯屋の思い出、そして、現在通い詰めている湯屋の話、そこに集まる湯屋好きの人たち。
 彼ら、また、湯屋についてのんびり書をしていこうと思う。
 

東京時代の湯屋 1.

 大学入学から東京生活のスタート。都会に憧れ渋谷と小田急線代々木八幡近くのアパート(富ヶ谷)に居を移す。3畳の小さなアパート「太陽荘」だ。家賃は1万円。近くに2軒の湯屋があった。その当時の代金は50円と記憶する。湯屋の扱いはと言うと実家の風呂に入るが如く、体を洗い「ザッブーン」と湯船に浸かるだけの淡白な入り方だ。
 半年後、大学のある吉祥寺に引っ越す。家賃は2万円、6畳一間。交通費が無くなった分少しグレードアップ。といっても風呂は無い。近くに名前は忘れたが湯屋が。藤村学園の隣であった。そこも「ザッブーン」だ。大学時代はこんな感じで湯屋を楽しむといった風情は無かった。

 大学も無事に4年で卒寮。普通は就職するのだが、小生は東京行きの目的はミュージシャンになることであった。親には迷惑をかけ反省至極だ。
 大学時代から新宿ピットインでバイトをし、何とか過酷な東京生活を過ごしてきた。村上春樹氏の「ノルウェイの森」の時代背景だ。
 新宿ピットインでプロのミュージシャンと接することができたのがこの当時の最大の財産であった。
 鈴木宏昌氏の事務所にアルバイトとして身を預けた。人生で一番勉強した時代だ。
 諸先輩は何も教えてくれない。「盗む。」だ。
 小生の先生方、鈴木宏昌氏(コルゲンさん)、八木正夫氏、井上大輔氏、すぎやまこういち氏。何と恵まれいたことか。
 時間が不規則なこの音楽ワーク。徹夜続きを癒してくれたのが「湯屋」である。

 「お世話になりました。」

東京時代の湯屋 2.

 東京時代よく通った湯屋は麻布十番温泉。ここは黄泉で湯の色はコカコーラのような色であった。次によく通った湯屋は、自宅マンションそばの世田谷温泉と記憶する。調べてみると名前が変わったのか「そしがや温泉21」となっていた。小田急線「祖師ヶ谷大蔵」から10分くらいの場所。あの木梨自転車辺りである。ここは一般公衆浴場(銭湯)だが、成城に近いせいもあってとても豪華である。プール、サウナまで完備していた。

 東京居住最後となる湯屋探訪は浅草「蛇骨湯」。友人が浅草に仕事場・住居があり一献ついでに良くこの湯屋に行った。
 この「蛇骨湯」は至極有名な湯屋であった。江戸期から続く都内屈指の歴史ある銭湯。黒褐色の天然温泉や半露天風呂も完備している健康増進型銭湯(Google)
 戦後焼け野原になった下町界隈の方々に無料でお風呂を提供し、小さな幸せを提供した。
 今は地上げに遭い、多分。令和元年、閉店してしまったが、下町の湯屋の雰囲気、面影がたくさん詰まったところであった。また、湯屋に集まる客も、下町、東京といった感じだ。モンモンが入った老人、東京イエローブックを持参した外国の方々。とても楽しい時間を経験した。

今はここ

 小生現在、名古屋・覚王山に居住する。ここ覚王山は名古屋エリア・東方に向かって台地が始まる地域である。東京で言えば、代官山辺りか。暮らす人々もやたら金持ちが多い。
 ビルの1Fの美容院のマスターの紹介で3Fの部屋を借りて現在に至る。ボロボロの部屋、ガスは無し、雨漏りはする、風呂は無しである。こういった理由で、家賃は3万円。格安である。しかも、覚王山・地下鉄の出口から0分と好立地。1年かけてマイセルフ・リノベーションで音楽スタジオに作り替えた。
 風呂が無いが故に「湯屋通い」がスタートしたのだ。

Bentoe Studio

 中々、本題の「湯屋に通う人たち」に行き着かないが、もう少し我慢して頂きたい。
 このブログの舞台を紹介しておこう。
 この台地のエリアには金持ちが多い。自ずと湯屋に通う方々はほぼ皆無。
 自転車で10分ほど坂を下るとその舞台「娯楽湯」がある。その湯屋にやってくる人々を小生なりの観察眼で紹介していくつもりだ。
 ここまでは事実。
 ここから登場する人々は架空の人達の話だ。

湯屋に通う人たち

続く。


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